今年四月に平成天皇の退位と新天皇の即位があり、それに伴って年号が五月から令和へと変わった。その天皇交代に伴う即位礼(即位礼正殿の儀)が、明日(10月22日)行われるという。それが直接の原因なのだろうが、最近メディアに新天皇のニュースが多くなってきている。

 朝日新聞にも「令和の天皇」と題する特集が、組まれている。その中で最近、「象徴は『空の箱』 何入れる」との見出しの投稿記事があった(作家 赤坂真理、1964年生まれ、2019.10.8)。

 見出しの意味が分からないではない。日本国憲法はその第一条単独で、「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定している。つまるところ投稿者の真意は、「象徴って何だ」を問いたいのであろう。

 「国民の総意」をどのようにして確かめたのか明らかではないけれど、日本における最高法規たる憲法が、その第一条で「象徴天皇」を規定したのは明らかである。

 憲法が公布されたのは昭和21(1946)年11月3日とされているから、今から76年も前のことになる。それから現在まで、恐らく多くの憲法学者や、無数とも言えるほどの研究者が、憲法の意味や象徴の意味を問い続けてきたはずである。

 にもかかわらず、投稿者の意見からするなら、「象徴」の意味がまるで分かっていないことを示している。もちろん私にも、憲法をこれまで何度か学問として学んだ経験があるにもかかわらず、象徴の意味などまるで理解できていない。それは、少なくとも「象徴」の意味が確立されていないことを示しているのではないだろうか。

 象徴であることが国民の総意であると規定しているにもかかわらず、その国民が理解できる言葉でその意味を伝えることができていないと思われるのである。投稿した作家と私の二人だけを掲げることで、国民の総意が得られていないことの証拠にしたいと思ってといるのではない。

 特定の専門家を除いて、恐らくほとんどの国民は「象徴」の意味を理解していないのではないだろうか。そして理解していると思われる専門家もまた、本当の意味では国民を納得させるだけの、きちんとした理解ができていないのではないだろうか。

 それはつまり、憲法に書かれた「象徴」の文言だけでは、余りにも不明確だからである。「象徴」とは日本語である。示された言葉だけからでは、いかに憲法が最高法規と位置づけられようとも、その具体的な意味を特定できていないように思えるのである。

 投稿した彼女はその中で、「・・・今、象徴という箱に何を入れるのか。象徴にどんな物語をまとわせるのか。試されているのは天皇ではなく、私たちです」と書く。


 これを読んで思ったのである。私たちは70数年もかけて、結局「象徴」の意味つかむことかできなかったのではないか。70数年前の戦後の混乱と空白から、少しも進んでいなかったことを、この言葉は思い知らせているのではないかと思えたのである。私たちは、戦後から現代まで空前とも言える成長を遂げたと自負している。だがその実は、少しも成長していなかったことが、彼女の意見から分かるような気がする。

 私は彼女の言葉を引用した。それは、その言葉に感動したわけでも、納得したわけでもない。「箱に菜に入れる」との問いかけは、何の意味も示していないからである。無意味な提言にしかなっていないと思うからである。

 少なくとも「私ならこの箱にこんなものを入れる」とか、「こんな手段で箱の内容を決めるべきではないか」などの具体的な提言することなしには、こんな単なる投げかけだけで投稿を完結しようとするのは、結局「提言していない」ことと同じではないかと思ったのである。

 それはもしかしたら、提言者たる彼女だけの責任ではないかもしれない。多くの学者や専門化が、70数年と言う歳月をかけながらも、彼女にこんな提言をさせるだけの理解力しか与えられなかった責任でもあると思うのである。そしてそうした無理解を恥じることなくあからさまに示している彼女の提言に、私は憲法で定めた「象徴」の無意味さを思うのである。

 今更「象徴」の箱に何を入れるかは国民である私たちですと言われたところで、言われた国民は途方に暮れるばかりである。これまでの長い歳月を、学者や政治家や研究者などは、いったいこれまで何をしていたのだろうか。まさに無責任に、国民に対して70余年もの歳月を経た後に、「さあ、ご勝手に」と投げだしただけなのではないだろうか。


                    2019.10.21        佐々木利夫


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象徴天皇