少年法における年齢の適用範囲を、20歳から18歳に引き下げようとする案が検討されているという。最近の犯罪が低年齢化していることで、法制審議会がそうした現実を反映して検討を始めたものらしい。こうした意見に対して、年齢引き下げには「反対」とする新聞投稿があった。

 投稿者は「保護司として30年あまり、300人以上の非行少年とつきあってきた」と称する弁護士である(2019.6.4、朝日新聞、私の視点「少年法の適用 更生に妨げ 年齢下げるな」)。

 彼の主張は、適用年齢を引き下げると「少年法に定められた更生のための制度は使えなくなる。これは非行対策として不十分なだけでなく、『少年の健全な育成を期す』という少年法の基本理念を変質させ、法律を死に至らせるものだ」とするものである。

 彼の主張している意味は分かった。文章全体から、現行法の20歳が適正なのだから、引き下げには反対とする意見なのだろう。そこまでは分かったのだが、なぜ現行の20歳という基準が正しいのか、なぜ18歳19歳という年齢に引き下げることが、「少年法の基本理念を変質させ、法律を死に至らせる」ことにつながるのかの説明が一切されていないことが気になったのである。

 少年法の適用年齢を20歳未満としたのは、恐らく満20歳で成年とする民法の規定があったからであろう。民法が制定された当時、20歳と言う年齢と成熟した大人としての認定とが、どこまで検証されたかどうか、必ずしもきちんとは分かってはいない。恐らく世界各国の傾向であるとか、「20歳がなんとなく区切りがいい」などの感情論もあったのではないだろうか。

 どこから大人になるのかは、本来そうした議論が尽くされた上で決められるべきではあろう。だが、日本人を一まとめにして、20歳未満は少年、20歳を過ぎた瞬間から大人になる、そんな区別など簡単にできるはずなどないように思える。

 つまるところ、「なんとなく大人として認めてもいいのではないか」と言う、漠たる感情論、感触論、感覚で決めるしかなかったのではないだろうか。それは、時間の経過による判定、すなわち連続する年齢のつながりの中で、ある集団の構成員を一括して、ここまでは子供、ここを過ぎたら大人などとは決められないのではないだろうか。

 様々な見解はあるだろうが、幼稚園児を子供と見ることに反対する人は恐らくいないだろう。つまり、年齢によって人は少しずつ子供から大人になっていくという、そうした流れそのものを否定する人はいないだろうと思う。

 子供から大人への過渡期は、つねに連続している。しかも、「大人の要件」として、様々な権利や義務や能力が要求されている場合、そうした要件は決して一つではない。契約締結であるとか、結婚や選挙、犯罪に対する自己責任などなど、多様な要件のそれぞれについて、大人として責任を負わせてよいのか、まだ子供として保護すべきかなどの判断が求められることになるのではないだろうか。

 極端にいうなら、善悪の判断はもう少し年齢が上がってからの方が望ましいとか、この程度の買い物の契約の判断ならこの程度の若さでも大人と認定してもいいなど、一人の人間に対しても複数の「大人としての基準」があるのではないかと言うことである。

 だからと言って、一人の人間に対して、複数の「大人基準」を設けることは現実的には難しいものがある。ましてやその管理なり運用を個別にすることにも、限界があるだろう。そこで日本は一律に20歳を大人の基準とし、その基準に少年法も従ったのである。

 つまり、「20歳は大人」と認定したのは、一種のフィクションだと言うことである。そもそも、「年齢を重ねることで人は少しずつ大人になっていく」と考えること自体、どこまで正しいのか疑問である。それも、あらゆる人間に対してそうした一律の判断基準を適用していいのかどうかは、かなり疑問である。もしかしたら間違いなのではないか、できないのではないかとすら思う。

 成人年齢を20歳から18歳に引き下げる改正民法が昨年の国会で成立し、2022年年4月から施行されることになった。これとても、いわゆる「成人であることの基準」みたいなものがきちんと議論された結果によるものだとは思えない。選挙対策だけというわけではないだろうが、「最近の子供は・・・」みたいな感覚が、どことなく引き下げる方向に向かったような気がしている。

 だから成人とは、一種のフィクションなのである。成人の要件とか、成人であることの能力などが個別に判定されたわけではないからである。

 ならぱ、少年法の適用もそうしたフィクションに従ったところで問題はないように思える。この投稿の筆者も、そんな感情論で20歳からの引き下げ反対を主張するのではなく、「20歳を迎えることで、人はここまで責任を負えるようになる」、「19歳もしくは18歳と言う成熟度では、この点とこの点で大人と判定するのは間違いである」などとした実証的データを示した上で、問題提起すべきだったのではないだろうか。

 問題はある年齢の少年少女に対して、「成人として自己責任を負わせる」のか、それとも「少年として指導に力点を置いた保護を主体とした対応をすべきでないか」のいずれかを決めることにある。そんな重要な判定を、感情論に委ねてしまってはいけないと思う。

 そんな議論が許されるなら、20歳を少年法から外してしまうことだって問題である。20歳を超えて自立できないと思えるような大人がまだまだ多くいるからである。25歳になっても少年、40歳になってもまだ保護が必要、そんな時代が現在でも進行中だからである。果たして、「大人」って、一体何なのだろうか。79歳の私は、本当に「大人としての完全な識見を持っている存在」なのだろうか。


                               2019.6.1        佐々木利夫


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少年法の意味