「終活」なんて言葉、いつの頃から使われだしてきたのだろうか、いまでは当たり前にこの語が世間を巡っている。恐らく「就職活動」を短縮した「就活」が発端だったように記憶している。それがいつの間にか、様々な行為に「活動」という語を付して、「婚活」(:結婚を目指す活動)など、今では「○活」と言う言い方が大流行している。

 いくつか並べてみると、「涙活・るいかつ」(涙を流すことでストレス解消)、「留活」(留学をするための活動)、「燃活」(ダイエットのため脂肪を燃焼させる活動)、「菌活」(体内の細菌を増やしたり活性化させる)、「離活」(離婚活動)、「妊活」(妊娠するための活動)、「恋活」(恋人をさがす活動)、「朝活」(健康管理のため、早朝から運動すること)、「昼活」(昼の時間を有効に使うこと)、「夕活」(朝、昼と同じ意味)、「夜活」(夜を利用したスキルアップ)、「転活」(転職活動)、「保活」(保育所保育園に子供を入れるための活動)、「美活」(脱毛などによる美の追求)などなど、○活なる熟語は際限なく続く。

 今回は終活についての感想である。この熟語の「終」の字は、人生の終わり、つまり「死」を意味する。終活とは、人生を終えるに当たっての準備もしくはそのための活動と言う意味である。

 昔から「有終の美」という言葉があり、物事の最後を仕上げるに当たって立派な成果をあげることである。そしてその最後という意味に人生を重ねることもあった。そうした意味では、終活も似たような意味だとは思うけれど、終活は「人生の終わり」の意味に限定されて使われているようである。

 ところで先日の新聞に、こんな読者投稿があった。

 「 終活は大事だが 納得いかない

  週刊誌が『終活の準備』について特集している。『死亡時の諸手続』、『遺産相続について』などなど、高齢者が死を前にしてやることの多さに驚く。・・・あまり身が入らないが取りかかろう。しかし自分の命の終わりを前に、こんなことまでしなくてはならないのか。・・・
」(2019.6.22、朝日新聞、農林業・三重県・81歳男性)

 日本人は「死」を話題にすること自体に拒否感があるので、終活にもどことない違和感があるのかもしれない。そうした思いが、この投稿者の「・・・こんなことまでしなくてはならないのか」との発言につながっているようにも思える。

 ただこの投稿を読んでいて、投稿者は終活の意味を少し勘違いしているのではないかと感じたのである。彼は終活の目的を、「自分のためにするもの」と思っているのではないかと感じたからである。生前から、自分の好みに合わせて棺を選んだり、戒名を決めておいたり、さらには葬儀の写真や会葬者をあらかじめ選択しておくなど、準備万端を整えておくのが終活だと、どこかで思い込み過ぎているのではないだろうかと感じたのである。

 もちろんそうした配慮が不必要だというのではない。自らにふさわしい写真を通夜の席に飾ってもらいたい、やわらかな棺にゆったりと入って永遠の眠りにつきたい、そして墓地は海の見える公園に・・・などなど、自らの最期の姿や死後の過ごし方を、自らの望むスタイルで決めたいと願う心に否やを唱えるつもりはない。それはそれで十分に認めていいだろうと思う。

 そうした「自分のために自らの死を締めくくる」、そうした思いは、それなり大切だとは思う。しかし、終活の本来の意味はそうではなく、残された家族のためにあるのではないか、そんな風に私は感じているのである。

 死にいく本人の思いと、残された家族の思いとは、必ずしも矛盾するものではないかもしれない。両者の思いが重なる場合だって、きっと多いとは思う。

 それでも死に行くものは、自らの死を感じることはできない。更に言うなら、死後についてはまるで意識することはできないのである。少なくとも私は、そう思っている。延命措置や胃ろうなど採否を、仮に終活で指定したとしても、そのことを死に行くものは感じることはできないと思うからである。

 ましてや、桜の木の下に遺骨を埋めてくれとか、海の見える墓地への埋葬、ふかふかの布団に包まれた棺などを、死者自らが感じることなどできはしない。本人は死の床でも、死後も、自らの死を体感することはできないのである。

 終活の本当の意味は、残された家族への思いであると私は思う。残された者が、「私の死をきっかけとして」、迷ったり、悩んだり、争ったりすることを、生前に可能な限り整理しておく、そうした思いやりが終活だと思うのである。それを「自分の死のため」だと思うのは、終活する者の錯覚ではないだろうか。

 終活は生きているときに死後を想像し、起きるであろう様々を考え、決断するものである。だが、死者は自らが決断した終活の結果を確かめることなど、不可能なのである。終活の意志は、残された者に対するいたわりの心であり、感謝の気持ちを示すものでしかないのである。

 そしてそれは、それで足りるのである。それだけで足りるのである。そんな風に私は感じているのである。


                          2019.6.28        佐々木利夫


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終活は誰のため