歴史に「れば、たら」は禁句だと聞いたことがある。「もし、・・・だったとすれば」、とか「仮に・・・だったとしたら」などの仮定で物語を作っていくことの危うさを示したものであろう。そんな禁句を、天下の公器、しかも人気の高いコラムである朝日新聞の「天声人語」に見つけて、少し驚いた。

 「心は楕円形」と語ったとされる著名な病理学者、樋野興夫(ひのおきお)のこの言葉を引用して、人の心の多様さを求めたいとするコラムであった。その中で天声人語子は、「・・・嫌いな人の存在を受け入れれば、・・・人生の歩みが、少しだけ軽やかにならないだろうか。」と結ぶのである(2019.5.12、朝日新聞)。

 特に抵抗なく読めた文章だったのだが、「もし・・・れば、・・・だろう」とする話法は、結局想像に願望を重ねた身勝手な思いを連ねただけで、何の主張にもなっていないのではないか、そんな気がしたのである。

 もちろん筆者の思いは歴史についての記述ではない。歴史にこうした仮定が禁句だというのは、結果が事実として示されている現象に対して、遡って「もし・・・だったら」を適用しても結果が変わるわけではなく、無意味であることを示したかったからであろう。

 そうした意味からするなら、天声人語の使い方は、「もし・・・だったら」、未来は「こんな風に変わっていくだろう」とする願望を示したものに過ぎない。だから、使い方として間違っているとは言えないのかもしれない。

 それでも、「もし・・・だとすれば、・・・だろう」とする仮定そのものが、私には無意味に思えたのである。どんなことにも「もし・・・だったら」を使うことは可能である。そしてその「もし・・・」は無制限に利用できる。どんなことにだって、「もし・・・だったら」をあてはめることは可能だからである。

 「もし心が楕円だったら」の仮定は、楕円が数学的に「定点を二つ置く円」、つまり「2定点からの距離の和が等しい円」という意味から考え付いたものだろう。そこから、「人の心も形も、一つでなく二つの中心を持てないだろうか」という意味へ類推したものだと思う。

 それは必ずしも中心が二つであることに限定されるものではないだろう。多様な発想を人の心に求めたいとの願望であるのなら、一つなり二つとする固定観念に縛られる必要はない。もっと緩やかに、三つも四つもあるような心で、多方面から物事に接していこうとの願いだって、十分に考えられるからである。

 でも、その「もし・・・だったら」の対象が、常に発言者にとっての「望ましい願望」だけに限られていることに、誰も注意を向けようとしない。その方向は、常に「発言者にとって有利な、そして主張が叶うような望ましい結果」に限られているのである。

 「もし世界中の人が戦争を拒否したとすれば・・・」もそうであり、「もし世の中から犯罪がなくなったとしたら・・・」も同様である。決してそこには「もし、国民の全部が移民の流入に反対したとすれば・・・」とか、「もし、世の中から自動車がなくなったら・・・」、「もしヒトラーが世界を席巻したとしたら・・・」などの願望で世界は平和になるのにとの思いは登場しないのである。

 つまり、その「もし・・・だったら」の対象は、自らにとっての実現して欲しい願望に限られるのであり、決して「あってはならないこと」が願望の対象とされることはないのである。それは当たり前と言えば当たり前である。自らにとって不利なことや否定的なことは、そもそも願望の対象にはならないからである。

 ことことは当たり前であると同時に、「れば、たら」の本質を表しているとも言える。つまりその願望は、願望だけの世界に止まってしまい、具体化するための努力や解決手法などの放棄につながってしまうからである。願望とその願望が叶った場面での結果だけを結びつけ、そこに実現のための努力なり苦難と言った手段を放棄してしまうからである。

 この天声人語子もそうである。「人の心の中心が二つあったら、人生の歩みが少しだけ軽やかにならないだろうか」とするだけで、そのためにどうすべきかの提言を、少しも提示していないからである。

 論者としてはまず第一に、多くの人の心の中心は、「残念なことに一つである」ことを示すべきだったたろう。そうした上で、その中心を二つにするためにはどうしたらいいのか、どんな方法があるのか、何をすべきなのかなどを具体的に示す必要があったと思うのである。そしてその上で、二つになったらどうなるかを示すべきであった。

 そして更に、二つの中心を持つ心は、必ず二つとも望ましい方向への特性を持っていることも示すべきであった。決して「もう一つの中心」が、悪や不善などの方向に向くことなどないことを示すべきであった。

 そうしないと、中心の一つが「無関心」であったり、もう一つの中心が「テロ国家の擁立」みたいなものになってしまうと、筆者の思う願望と矛盾するからである。それは中心が三つになったところで変わるものではない。三つ目が「私だけが幸せなら、他はどうなってもかまわない」でも、「万引きしても見つからないように」でも困るからである。

 つまり天声人語子は、「・・・れば、・・・だろう」と美味しい言葉を並べてはいるけれど、それは単に並べているというだけで、結局は何にも言っていないのと同じではないかと思うのである。そして更に同じどころかむしろ、美味しい言葉のぶんだけ空疎でもあるように思えてならないのである。


                               2019.5.15        佐々木利夫


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