先月の新聞に、こんな記事が載っていた。「専門誌に聞け」と題する特集コーナーへの、「月刊住職」と称する雑誌の編集長からの投稿であった(2019.4.24、朝日新聞)。読んでいるうちに、この記事の中にあった「墓あばき」という言葉が気になった。その投稿を少しく引用してみよう。

 「最近、『終活』がブームですが、私は『寺活』もしてほしいと言っています」、投稿はこんな言葉で始まる。寺活という語は恐らく投稿者による造語だとは思うけれど、「自分の老いや死と向き合うときに、寺をもっと活用して欲しい」の意味らしい。そして「・・・病院が必要なように、寺も必要です」と続ける。

 ここまでは特に違和感なく読めていた。だが、次に「お金」の話が出てきたあたりから、どことなく私のへそがむずむずしだしたのである。

 投稿者は、「・・・(人々は)寺にお金を使っていません。総務省の家計調査では、2018年の所帯あたりの信仰・祭祀費は、平均で年1万2250円にとどまっています」とする。どうやら、寺に対する市民の支出が足りないことが不満らしい。信仰・祭祀費の具体的な内容は分からないけれど、神社仏閣のみならず教会や新興宗教などに対する支出、いわゆる冠婚葬祭を含む宗教に関連しした費用というほどの意味であろう。

 だとするなら、この支出のすべてが寺だけに入るものではないだろう。神社や教会などとも分け合わなければならないし、仮に有名観光地での寺社の入場料・入館料などまでこの総務省統計に含まれているとするなら、寺のいわゆる檀家からの収入というのは更に更に小さいものになるだろう。

 だからと言って、ストレートに「遠くに寺を持つ方なら、二つの寺の檀家になってもいいと思います。先祖代々の寺との関係は保ちつつ、近くの寺の檀家にもなる。金銭的な負担は多少増えても、精神的には豊かになれるはずです。」とまで断じるのは余りにも一方的である。一方的を超えて、身勝手そのものにまでなっているように私には思えた。

 なぜなら、この理屈は、寺への支出をあたかも「精神的に豊かになれるための支出である」と、なんの事実認定や根拠もなしに、断定してしまっているからである。

 こんな風に思うのは、私が無神論者だからなのかもしれない。だからと言って私は、精神的な豊かさを求めて寺社と関わりを持っている人の存在を否定したいわけではない。それでも、総務省統計の信仰・祭祀費の中に、どの程度「宗教的な豊かさを求めるための支出」が含まれているかは極めて疑問だと思っている。

 ましてや、葬儀とのみ結びついているかのようにみえる仏教である。現代の人々がどこまで、そうした仏教に精神的な豊かさを求めているかは私は否定的に感じており、投稿者自身もそのことを何ら立証していないのは寺と人の関係を承知しているからではないかと思っている。

 宗教そのものに、それを何と名づけていいか私自身きちんと理解してはいないのだが、精神的な豊かさを求める要素が含まれているだろうことは認めていいと思う。救われたいと願う心が宗教を生み、心の安定を求める気持ちが信仰を育んできたであろう人類の精神の歴史を否定はしない。

 でも現代の、少なくとも今の仏教活動に精神性を求めることはナンセンスだと思っている。意味の分からない「お経」としきたりと化した形式的な行事に、仏教そのものがすっかり埋没してしまっているように思えるからである。だから現代の寺という組織に、そうした精神性は望めないと私は思っている。

 それは、「精神性が見られない」とか「感じられない」という範囲を超えて、あえて「ない」とまでに私は断言したいと思う。寺とは「葬儀社」もしくは「葬儀請負人」でしかないからである。もっと言うなら「葬儀社からの委託を受けたお経読み上げ業であり、仮にもう少し格上げしたところで葬儀代行人」でしかないと思っているからである。

 宗教に精神性を求め、そしてその対価として一定の報酬を求めるのであれば、寺社そのものがその報酬に見合うだけの努力をすることが求められるのではないだろうか。檀家だけに限ることなく、社会に対しても「どうしたら人は救われるのか」、「どうしたら人は精神的に豊かになれるのか」、そうした疑問の回答に向けた努力を、寺そのものが積極的に公表していく必要があると思う。

 それを逆に、確認することのできない死者の意志を勝手に持ち出して、「故人は生前、そこに埋められることを望んでいたはずです。その意志を無視する権利が誰にあるのでしょうか。安らかに眠っている先祖を動かすのは、極端な言い方をすれば、『墓あばき』です。」と断ずるのは、読者に対する脅迫である。そして死者に対する冒涜でもあるのではないだろうか。説得でも納得させるでもない言葉遣いは、単なる脅しでしかないように思える。

 そして更に、「・・・墓も(埋葬地と参拝地の)二つあっていい。」とするのは、恐らく先に引用した「二つの寺の檀家になってもいい」との論述に結びついているのだとは思うけれど、まさに「複数の寺の檀家になって、今よりもっと寺へ金を払え」とする金儲け主義の理屈になっているようにしか思えない。

 投稿者の言う「・・・幸せな余生を送るためには、健康だけでなく、宗教的なものが必要です」とする思いに反対はしない。むしろ、その通りだとも感じている。しかしそれを「寺活」と呼んで、寺への寄進を増やそうとする意図には、どこか納得できない打算が感じられてしまう。

 寺自身に、「人はなぜ悩むのか」、「人はどうして信仰を求めるのか」などの問いに対する解決が求められているのである。そうした解決への真摯な努力を続け、そして人々にその成果を示していかない限り、寺はますます社会から孤立していくことだろう。

 そうした解決への努力を放棄することは、単に投稿者の嘆く「墓じまい」、「檀家離れ」、「寺離れ」などのイメージを超えて、宗教としての寺の行きつく先の埋没、そして仏教そのものの衰退と消滅を暗示しているように思える。それは決して、「ご先祖さまの意思」だとか「墓あばき」などと言った、脅迫じみた一言で解決できるような甘っちょろいものではない。このままでは仏教は、存亡への禍根につながることだろう。


                               2019.5.10        佐々木利夫


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