「全ての移民はただ、より良く生きたい、子や孫がより良く生きてほしいと願っているだけだということです」と記者は語る(2019.5.25、朝日新聞、そよかぜ「移民の歴史 語る意味」 ニューヨーク記者)。

 だが、「全ての移民は・・・」と言ってしまったのは間違いである。少なくとも、その前段に「僅かにしろ例外を除いて・・・」とか、「全てではないけれど・・・」などの条件をつけるべきだと思うからである。いやいや、現実は「僅か」の範囲を十分に超えているように私には思える。

 例外かも知れないにしては、テロリストが混在している事実、暴徒の予備軍になる可能性のある移民がその中に含まれているであろう割合は極めて高いからである。そうした移民が存在するであろう割合は、テロ予備軍や暴徒予備軍まで含めるなら、それなり高いものになるだろう。

 そうしたテロリストもしくはその予備軍は、始めからテロリストらしい顔つきをしているわけではない。また、彼ら自身がテロリストであることや、テロ信奉者であることを標榜して行動しているわけではない。彼らの行動の多くは常に秘匿され、隠れながら行動するのが常だからである。

 だがテロリストは犯罪予備軍であり、多くの人の無差別な死を計画している者でもある。場合によっては純粋に政治転覆だけが目的であり、その行動が言論の自由や表現の自由として守られるべき場合があるかも知れない。それでも、いつその範囲を超えるか、暴発するかを監視する必要がある。時に犯罪の予備そのものが犯罪となるような場合もあるのだから、状況によっては予備の段階でその者を拘束しなければならないケースだって起きるだろう。

 どこまでが許される「自由の制限」に当たるかは、とても難しい判定だとは思う。それでも、難しいからと言って無制限に彼らの行動を許容することは許されない。テロリストを容認するということは、地下鉄で映画館や商店街で、そして礼拝場などで、少しも非難もされるような行動をしていない私たちにも、その被害が及ぶことを意味している。

 さあどうする。私たちは我が身、そして家族や同僚を守るために、どこかで取締りの基準を設けて、テロリストの自由を制限しなければならない。その守るべき対象が家族などの範囲を超えて、市民、国民にまで広がるとき、そこには必然的に自己矛盾が生じてくる。

 制限の基準を余りにも厳格にすると、当然許されるような自由まで制限してしまうことになるからである。つまり、制限の厳格さが自らや無関係な人たちにまで及び、まさに「何にもしていない」にもかかわらず拘束されてしまうような危険さえも起きるからである。

 私たちは、そうしたジレンマの中に生存している。もちろんそうした基準は、理論的には実質なり事実に求めることが正しいのかもしれない。けれども、判断の多くは外形、場合によっては例えば人種、顔つき、住んでいる地域などと言った、実質とは異なる外形に依存しなければならないこともある。

 そしてそうした判断が間違う可能性は常に起こりうる。それでも私たちは第一印象で人を判断したり、黒人は白人よりも劣っていると感じたり、人種や習慣などで人を差別してしまう癖を持っている。

 それは、なぜか。答は簡単である。そうすることが危険回避の可能性として一番容易で、一番確度が高いからである。「まず逃げること」、これこそが私たち人類が数万年を生き残ってきた基本だと感じるからである。真正面にいる相手が、こちらに危害を加える恐れがあるのか、それとも全くないのか、私たちは経験なしにそれを知ることはできない。

 そうしたとき、私たちは「逃げる」、「逃げない」の、いずれを選択すべきだろうか。それも瞬時にである。生き残るためには「逃げる」を選択したほうが間違いないだろう。しかし、もし仮にその相手に危険は全くなく、逆に美味で私たちの生存に活用できる素晴らしい食材になるのだとするなら、私たちは逃げることで生延びる絶好の機会を放棄することになる。

 また「生き残る」ことを主体に考えるなら、「逃げる」に勝る選択肢はない。生き残るためには、他の食料を探すことだって可能だからである。

 その選択は、「君子危うきに近寄らず」か、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」かの違いである。私たちは多く、この前者を選択することで生延びてきたように思える。そしてそうした選択の系譜が、私たちがこの「テロリストらしい顔」と認識すること、つまり先入観を抱くことにもつながっているのではないだろうか。

 「・・・らしい顔」でその人の危険度を想定することは、間違った判定を下す可能性のあることは既に祖べた。テロリストでないにもかかわらずテロリストとして扱ったり、犯罪者でない者を犯罪人だと認識してしまう危険性である。そうした思いが、差別や偏見を生む基盤になっていることを知らないではない。いわれなき差別や偏見が、相手を大きく傷つけることは多々あることを私たちは知っている。

 それでも、私たちが生残るためには、そうした思いは必然だったようにも思える。身内が安全、よそ者は危険、そう断じることは時に間違うことがある。でも私たちはそうすることで生延びてきたのではないのだろうか。特に相手に関する知識や経験がないときには、とりあえず「危険」と判断してそこから「逃げ出す」こそこそが、生延びるための最良の選択だったのではないだろうか。

 そうした判断を、愚かだとして責めることはたやすい。でもそれは、相手の性格や思惑をこちらが理解できてから始めて言えることである。「知らない相手からは、まずは逃げること」、こうした判断を私は無視することはできない。むしろ、正解だとすら思っている。

 人は他者を理解できないように、作られている。人は人や動物の気持ちがすぐには分からないのである。理解できるまで、危険か危険でないかの判断がつかないのである。だとするなら、見知らぬ他者を「善人」と見るか、それとも「悪人」と見るか、危険回避のために、あなたならどちらを選ぶだろうか。

 誤解がないように言っておきたいが、私は移民=テロリストだと考えているわけではない。ただ区別がつかない以上、自衛策としては危うさを避ける方向へと人の心が動くのは已むを得ないのではないかと考えているだけなのである。

 そして日本が考えている移民政策は、単に「人手不足を補充するための移民利用」、「猫の手も借りたいときの猫の手探し」になっているだけにしか過ぎないのではないかと、今の私には思えてならないのである。


                               2019.6.20        佐々木利夫


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テロリストらしい顔