私にとってタイトルとは、せいぜいこうしたエッセイに付した表題程度の意味しか持っていない。しかし世の中には金メダルに代表されるようなスポーツ競技大会や文学賞や音楽賞など、「他者と競争するような場面」には、常に「○○賞」などのタイトルがつけられることが多い。

 たとえそれが全国規模の大会であろうが地方大会であろうが、はたまたワールドカップのような国際的な競技会やノーベル賞のような顕彰などであろうが同様である。それは、そのグループにおける何らかの「トップ」としての地位を意味している。そうした意味では、タイトルと名づけられる数たるや、世界には恐らく無数と言ってもいいくらい多く存在することだろう。

 なぜなら、○○幼稚園サクラ組の園児15人の10メートル競走にだって、会社の運動会における綱引きの優勝にだって、何らかのタイトルを設けることができるからである。

 そうした無数とも言えるタイトルの中から、特定のタイトルを選んで「三大タイトル」と銘打ったり、更には「十大タイトル」と名づけたりしたところで、特に異を唱えるつもりはない。そうした特定のタイトルを選択した意味や基準には様々な異論があるかもしれないけれど、例えばオリンピックで「マラソン」と「100メートル競走」の優勝に、「二大タイトル」と名づけたところでそれはそれで納得できないではない。

 だから「○大タイトル」と言ったところで、それが国際的、全国的である必要はないだろう。特定の小学校、特定の会社、特定の企業グループや学会などに共通した顕彰制度などがあって、その中から数種を選んで「○大タイトル」としたところで、何の異論もない。

 私が気になったのは、最近の新聞記事でこんな見出しを見たからであった。そこにはこんな風に書かれていた。 「芝野 初の10代名人 囲碁 最年少で七大タイトル」(2019.10..9、朝日)。

 私は囲碁をまるで知らない。常識的であろうと思われる程度の知識すらない。碁盤、碁石は知っているが、私の知識は、せいぜいが囲碁が「世界的なゲームであること」くらいであり、そして自ら遊ぶことの出来る範囲は「五目並べ」程度にしか過ぎないからである。

 だから無知と言うよりは、無関心と言ったほうがいいのかもしれない。従って、囲碁の世界にタイトルがいくつあるのか、そのタイトルの意味がどのように異なっているのかについても、まるで知識がない。知らないのではあるけれど、新聞の見出しに掲げられていた「七大タイトル」の文字は、どこかとても気になったのである。

 世界にタイトルは無数にある、と書いたばかりである。だとしたら、囲碁にだって七つや八つのタイトルがあったところで何の不思議もない。そんな領域へ囲碁をまるで知らない素人が、タイトル数を気にするなどは、どこか偏見なのではないかと思わないでもない。

 それでも気になってしまうのである。それは少なくとも囲碁は、「盤上で白黒二種類の碁石による陣取り合戦である」程度の認識が私にはあるからである。もちろんそんな程度の知識でこんなことに違和感を論じること自体、見当はずれに陥っているのかもしれない。まさに素人の独断と偏見そのものかも知れない。

 でも私の感じている囲碁は、たとえその世界に深遠な思いが込められていようとも、決められた盤上で二人が勝敗を競うものであることに違いはあるまい。そして二人による勝負が何度か続けられ、その結果として一つのタイトルへと収斂していく、そんな過程だと思っているのである。

 だから囲碁の世界でも、得られる金メダルは一つで足りるような気がしてならない。もちろん、町内会の囲碁大会から専門棋士による全国一、世界一などを競う大会まで、多数もしくは無数のタイトルがあったところで、そこに私は何の矛盾も感じない。

 だがこの新聞記事に言う「七大タイトル」とは、少なくとも日本一に付される複数の名称だったのである。もちろん私にはそのタイトルに付された、棋聖・名人・本因坊・王座・天元・碁聖・十段などの意味も、位置づけもまるで理解できていない。

 それでもそれぞれの名称が、それぞれに「日本一」を示しているであろうことくらいは分かる。その日本一であるタイトルを、一人の棋士が独占したことがこの新聞記事になったのだろう。それはそのまま、日本には日本一のタイトルが七つ存在していることを意味していた。

 だから私はこの「七大」に、へそが曲がってしまったのである。日本一が七つもあることに、どこか違和感を覚えたのである。こんなことを認めてしまったら、八大でも十大でも、なんなら百大でも、無数の日本一を一つのゲームの中に作ることが可能であるかのように感じたのである。

 もちろん日本一を七年続けて維持したというのなら、そこに何の疑問も感じないだろう。でも、日本一を同時に七つも作る囲碁の世界が、どことなく独善的に思えて仕方がなかったのである。オリンピック競技で100メートル競争を、一センチごとに区切り、100メートル、99.9メートル、99.8メートル競争・・・をいくつも作り、それぞれの優勝者に金メダルを与えるようなことは、なぜかしっくりこないように感じてしまったのである。

 もしかしたらこの七大タイトルには、私が感じた意味以上の内容が込められているのかもしれない。私は勝手にこのタイトルの意味を誤解しているだけなのかもしれない。また囲碁の世界には、日本一を決める主催団体が七つあって、それぞれが日本一を自称しているだけなのかもしれない。

 だとするなら、複数のタイトルは、「一つの日本一」に統合すべきではないのだろうか。同じ意味のタイトルが複数存在すること自体、「日本一」の意味を不確かなものにしているように思う。こんな考えはまさに、私のへそ曲がりの屁理屈である。でもどうしても「金メダルはある競技にただ一つ」、そんな意識から離れられないでいるのである。


                    2019.10.19        佐々木利夫


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七大タイトルの意味