労働大臣官房統計情報部が毎月公表する、「毎月勤労統計調査」で、国会がもめにもめている。この統計は全国の各産業の事業所が対象で、失業保険や労働保険の給付や雇用者報酬の算出など、広い分野への影響力を持ち、国内総生産(GDP)の算出にも用いられていると言われている。

 その統計調査の手法に誤りがあったとして、2000万人にも及ぶ給付者への追加給付などが問題となっている。これは単に「消えた給付金」という問題のみならず、現在の内閣総理大臣の掲げた経済政策(いわゆる「安倍ノミクス」)の評価にも利用されたことから、政府の政策の問題にまで発展しようとしている。

 こうした統計手法の誤りは毎勤統計のみならず、政府の主要統計として位置づけられている56の統計のうち22統計に間違いが認められたことなど、日本の統計そのものの信頼にまで影響を与えている。

 行政の公平・公正・効率的な運営や、民間活動の支援などなど、統計の使命には国の姿が色濃く反映している。だからこそ、統計学に基づいた厳格な調査手法が求められているのだろう。それがないがしろにされた今回の事件は、まさに国の運営そのものを揺るがすものである。

 発端となった毎月勤労統計調査は、厚労省の所管である。そこで開催中の国会で、厚労大臣が集中放火を浴びることになる。とは言っても厚労大臣が直接作業に携わったものではないので、いわゆる監督責任ということになり、更には国会答弁への信頼性が問われている。

 ところで、国会での質疑の中で、厚労省の担当部局の責任者の国会招致が問題となった。どうしてこんなことになったのか、いつごろから始まったのか、適正な統計に復元できるのか、追加給付はいつまでに、そしてどこまで可能なのかなどなど、厚労大臣を始めとする行政トップの責任には重いものがある。

 そしてそれら過去のいきさつについては、事務方トップの話を聞くのが一番であり、その手法として担当者の国会招致が求められた。

 このあたりから、私には理解できない与野党の駆け引きがはじまる。その理解できないとする根拠は、国会招致対象者の人選についてである。野党が、実際に不正が行われた当時の部局の責任者である政策統括官の招致を求めたのに対し、与党は反対したからである。

 反対の理由は、「当時の政策統括官は、既にこの不正問題とは別の件で数日前に更迭されており、現在は制作統括官の任にはない。したがって新たに任命された統括官を招致の対象とすべきであり、前任者は対象とはならない」としたのである。

 この新任の統括官が、たとえば不正の行われていた当時、同じ部局に所属していたのかどうか、そこまでは私は知らない。だが与党の言い分を聞く限り、「現在の担当ポストに所属する者だから」ということだけらしい。

 つまり、現在担当している役職(ポスト)にある者を呼ぶべきであって、既にそのポストから更迭されてしまった前任者は招致対象とはならない、との理屈である。

 ここのところの理屈が、私にはどうにもすっきりこないのである。問題となった統計不正が、どの程度の犯罪性を持つのかどうか、私は必ずしも理解しているわけではない。

 確かに「個々人」のみでなく、いわゆる組織たる「法人」を問責の対象とするような事例を知らないではない。法人に罰金を課したり、法人としての営業を停止したりすることもあるだろう。それでも、法人そのものが不正の意志を持っているわけではない。例えば株主であるとか社長や執行責任者の意志により不正が行われたり、使用人などの個人だけでなく法人そのものの責任を問うことで被害者なり社会の正義が全うされると思われるような場合もあるだろう。

 しかしそうした場合であっても、不正なり犯罪の実行者は常に個人である。たとえそれが見かけ上「法人の意志」のように見えたとしても、法人そのものに実行の意思はない。だから法人に責任を問うことは、個人との両罰規定になるのである。法人だけを懲役刑にしたり、死刑にすることは無意味だからである。

 そうした考えを今回の国会招致に当てはめてみると、与党の言う「前任者を呼ぶことは認められない」とする理屈は、まるで整合性がないように思えてならない。少なくとも現在国会に致しようとしているのは、前任者である。だがその前任者は、今回問題となっている統計不正問題に直接関わっている当事者なのである。その当事者が、理由はともあれ何らかの原因でそのポストを更迭され、新しい担当者が就任したのである

 今回の統計不正の場合では、担当者である前任者が、直接この不正に関わったのは明らかである。その上でその不正がどういう経緯でなされたのか、どのように隠蔽されたのか、不正の目的や趣旨がどこにあったのかなどなど、そうした様々を追求するために国会招致があるのである。後任者はこの不正に関しては、むしろ直接関与していないのである。

 もちろん、「関与していない」ことや「不正を知らなかった」ことが、責任を回避する理由にならないことはあると思う。例えば監督責任などは、「知らなかった」だけで免責されることは許されないからである。だからそうした意味で、組織としての責任という意味で、後任者であってもそのポストにある者に対しても負わすべきものなのである。

 だが、事実は担当していた前任者がその内容を一番良く知っていることは明らかである。不正がどういう経緯で行われたのか、今後の適正化に向けてどうすればいいのかなどなど、直接携わった前任者に問うのでなければ解明できないと思うのである。前任者からでなければ、その答を知ることなどできないと思うからである。

 後任者の招致が必要ないなどとは思わない。統計不正の事実経過を組織としての前任者を追及することで明らかにし、その事実を踏まえて今後の統計行政なり、不正への問責をどうするかなど、組織改革も含めて組織歳の後任である者を放置しておくことはできないだろうからである。だからと言って、前任者を不問にしてしまっては、この問題を解決することは決してできないと思ったのである。そしてそれが国民としても極めて当たり前の思いなのではないかと思ったのである。

 そうしたことを与党もやっと分かってきたらしく、今日の国会で前任者の招致が決まったとの報道があった。この招致で統計不正が全面解決するのかどうか、またしても行政と国会、与党と野党の駆け引きなどで、うやむやになってしまうような気がしないではないけれど、それでも一歩前進には違いがなかろう。

 それでも私はこうした前任者や後任者を巡る不可思議な議論が、国会という大人の集団の中で、あたかも正論のようにまかり通ることに驚いたのである。私たちの意見、国民の当たり前の意思みたいな思いは、国会という洗練されているかのようにみえる国政の場では、まるで通じないことに、日本の政治の貧困さを思ったのである。そしてそれは国民の常識という、これしきの思いも通じないという、政治不信にもつながるものであった。


                                  2019.2.9        佐々木利夫


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犯人は「役職」なのか