グローバリゼーションが盛りである。地球が小さくなり、その中で現在も含めて将来、人類に食料供給が間に合わなくなるとの報道もなされている。だがしかし、その食料不足の意味は平均値でしかない。一握りの人間が肥満に悩み、残された多くが空腹であることを超えて、飢餓にまで追い込まれているのである。
その原因はどこにあるのか。答ははっきりしている。それは世界がバランスを欠いているからである。豊かさが片方に極端に偏っており、貧しさもまた反対側に偏っているからであるある。
飽食と飢餓のアンバランスは、今や富裕と貧困、読書と文盲、力ある国とない国など、あらゆる格差へと拡大していっている。
だから多様化への要求は、そうしたアンバランスの平均化への要求として、当たり前の主張なのかもしれない。それは人はもともと多様だったことの裏返しだとも言えるからである。
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と言ったのは福沢諭吉だったろうか。恐らくどんな宗教もそして古今のどの哲学者も、人類皆兄弟・人類平等を謳っていたのではないだろうか。そして言えることは、誰一人としてそんな社会の存在を信じていなかったことである。
その原因がジェネレーションギャップにあると考えるか、はたまた金持ちと貧乏人の差と考えるか、更には男と女の性差であるとか受けた教育水準の差や生まれた国の違いなどによると思うかは、人それぞれではあろう。でも、個々としての人は、それぞれ他者と異なることを、人は生まれながらに知っていた。
それを個性と呼ぶか、あるいは性格の違いと呼ぶかはともかく、人がそれぞれに違うことを人は本能的に知っている。だからこそ、人は均一化を求めるのだろうか。その均一化への要求が、多様化の承認の容認へと発展していくのだろうか。
性差をなくすこと、貧しい者にも教育の機会を与えること、人種や出身地や貧富などによる偏見などを解消していくことなどなど、そうした差別なり区別なりをなくしていこうという主張に反対する人は少ないだろうと思う。むしろそうした方向は正しいと考える人が多いような気さえしている。
こうした考えを持つ人たちの増加を、仮に多様化への変化と呼んでいいのなら、現代はまさにそうした風潮の中にある。
一昔前の話になるが、最近またメディアに出回ってきている金子みすゞの詩がある。「・・・鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがつて、みんないい。」(金子みすゞ、「私と小鳥と鈴と」)。小鳥も鈴も私も、それぞれに特色がある。だから区別することなくそれぞれを認めていこうとする思いである。
でも、どんな時代のどんな人々をとらえても、これまで平等という社会など存在したことはなかった。不平等な世の中は、縄文時代から現代にいたるまで、否否それ以前の社会を考えたところでこれまで一切存在しなかったのである。
それは日本だけに限る話ではない。ピラミッド時代のエジプトでも、神話時代のギリシャでも、そして中国三千年の歴史を通じても同じである。姿を変え、形を変え、まとう衣を変えて、差別や区別は様々な形で私たちの中に存在していた。
だからこそ平等の思想が必要になるのだと、人は言うかもしれない。でも、人は平等でないように作られていると考えることの方が、あらゆる現実を説明できるのではないだろうか。差別区別は、人間の本質として、私たちの中に予め組み込まれていると考えることの方が、人類社会を正当に評価できるのではないだろうか。
そして一番の疑問は、「多様化への要求」が偏った考えに支配されているのではないかとの危険性である。差別がない社会を求めること、社会に住むそれぞれを、個性ある者としてすべてあるがままに承認することは、一見社会の理想のように思えなくもない。
でも考えてもほしい。「すべてをあるがままに認める」という姿勢は、善悪を超えてあらゆる考えや立場を承認するということでもあるのである。まさに「みんなちがって・・・」を、あるがままに承認することなのである。
殺人を正当化する人も、盗みや詐欺を繰り返す人たちも、我が思いこそ正義であるとの考えに凝り固まったテロリスト集団も、法定速度を守るよりもスピードオーバーに快感を覚える人の存在も、それぞれが多様なのである。それぞれが、「みんなちがう」人たちなのである。
もちろん、戦争をなくそうと考える人もいるだろうし、国際協調こそがグローバルな世界を作り上げていくためには必須だと考える人だっているだろう。もっと単純に、家庭の平和こそが人生の目標だと考えたり、他人に迷惑をかけないことを身上とする人だっているたろう。
いま主張されている多様化の求めは、どこかで線を引いて、その線から右側のグループだけは多様化であることを承認するけれど、左側の主張は多様化には含めないとの偏った思いが基本にあるようにしか思えないのである。
つまり極端に言うなら、障害者を保護することや貧者を救済し難民を受け入れることは、多様化に含めていいけれど、どんなに正義を主張しようともテロリストや偏った宗教の熱狂者は多様要求の考えには含めないとする考えである。
ならば、その線引きは誰がするのだろうか。線引きする意見もまた多様である。「ここまで、ここを越えず」とするのはいいけれど、「ここ」は誰がどのように決めるのだろうか。そんな不確かな多様を認めるということと、現在の社会をそのまま容認することとはどこが違うのだろうか。
経済で、武力で国と国が争い、人種や男女差や貧富による差別や区別がまさに「互いの違い」として存在しているのが現代社会である。それもまた多様の一形態なのではないだろうか。
あくせく働かないで楽な生活をしていきたいと考える人も、ギャンブルこそが生き甲斐だと思っている人も、それぞれが多様な人たちの一つの姿なのである。それでもなお人は、「みんなちがって、みんないい」と言うのだろうか。「みんな」って、一体何なのだろうか。
2019.10.25 佐々木利夫
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