ダウン症の24歳の息子が、母親にこんな言葉を伝えたという。伝えられたのは、その息子が成人式を迎えた日だったという。そしてその言葉に感激した母親の姿をテレビは伝えていた。

 母の気持ちは良く分かる。また、伝えた息子の気持ちも同じくらい十分に理解できる。分かり過ぎるほどよく分かっていながら、それでもなおこの映像に違和感が残ったのは、私がやっぱりどこかへそ曲がりだからなのだろうか。

 この親子の態度や思いそのものに違和感を覚えたのではない。この親子とはまるで無関係の場面を想定してしまったことが原因である。それは、この「産んでくれてありがとう」が、そのまま反語になる場合だって同じくらい存在しているだろうと思ったからであった。

 それはつまり、「産んでくれなくても良かったのに」と思う人だっているだろうとの思いであり、「どうして勝手に私を産んだのか」と非難するような気持ちを抱く人だっているだろうと思ったのである。世の中には多様な思いが混在する。善悪や好悪や愛憎なども含めて、様々な思いが交錯するのが社会であり、人間関係なのだと思う。

 だから、「産んでくれてありがとう」と思う人がいる一方で、「特に産んでくれたことを意識しないで生きている人」や、また「産んでくれなきゃ良かったのに」と思う人もいたところで、何の不自然さもないだろう。

 そして、そうした思いは、一人の人間に一生涯同じ考えとして定着しているのではなく、時に感謝し、時に嘆き、時に無関心になっている、そんな状態が反復しているのではないかと思ったのである。

 だとするなら、「それはそれでいいじゃないか」と思うかもしれない。人は時に高揚し、時に落胆する。そして時に無感動に時間を過ごすことだってあるからである。

 このダウン症の息子だって、24時間そして20年間、ひっきりなしに親へ感謝し続けていたわけではないだろう。時に感謝し、時に落ち込む、それが人間だと思うからである。それは必ずしもダウン症だけに限るものではない。背が高いことや低いこと、顔の美醜、成績の良否、親の裕福度などなど、私たちは好むと好まざるとにかかわらず、親から生まれてくることを否定することはできない。それはそのまま親に依存しなければ生きて行けないことを意味し、親の影響から逃れることなどできはしない。

 そうしたとき、すべての成り行きを「運命」として受容できる子供もいるとは思うけれど、ほとんどは自分の運命を「他人のせい」、つまり「自分以外のせい」にすることが多いのではないだろうか。そしてその他人とは身近にいる「親」ということであり、対象となる場面の多くが「よいこと」よりも、「悪いこと」に偏るのではないだろうか。

 なぜなら、「順風満帆」のときに他者を責める必要を感じることはまずないからである。勝利も栄光も満足も、満足できるすべては自らの力によるものであり、生まれてきたことすら自らの勝利だとすら思ってしまうからである。産まれてきたことを後悔するのは、自らが失意の中にあるときである。

 もちろんどんな成功や満足も、「今自分が生きている」からこそ味わえる感情である。そはさりながら、満足しているときに、人はなかなか「産んでくれてありがとう」とは思わない。勝利は常に「自分の力によるもの」であり、失意の原因こそが「他者のせい」になるからである。そしてその他者とは多くの場合「親」なのである。

 もちろん、「どうして産まれてきてしまったのだろう」と、自らを責める場面だってあるだろう。だが「産まれること」は自己責任ではない。「産まれてくること」や「誰の子として産まれるか」を決定する力なぞ、自身にはまるでないからである。産まれることも生まれる環境も、子は自ら選択し決定することなどできないからである。

 そんなこんなで、この「産んでくれてありがとう」という思いそのものが、反語を含む相対概念なのではないかと思えたのである。もちろん、この言葉を発した20歳の彼が、反対の思いを感じていただろうということではない。純粋に感謝の気持ちを母親に伝えたであろうことを、豪も疑うものではない。また、感じるべきだと教え込むつもりもない。

 それでも、産まれてきたことへ感謝の気持ちを伝える人がいるということは、それと同じ数だけそう思わない人もいるということなのではないかと思ったのである。思う人がいて、思わない人がいる、だからと言って、それらが相殺できると思っているわけではない。

 産んでくれた喜びを表すことを、はしゃぎ過ぎだと思っているわけではない。ただ、産まれてきたことを素直に喜べない人がいることを、そして同じ人でも相反する気持ちをどこかで交互に感じていることを理解する必要があるのではないかと思ったのである。

 そしてそんな風に人間を感じる心のゆとりを、私たちは持っていたいものだと思ったのである。それは、「産んでくれたことを喜んでいる人」にのみ要求するのではなく、そしてまた「生まれてきたことを素直に喜べない人」だけに要求したいのでもない。

 むしろこうした両義的な思いは、人が人として生きていくことや社会の中で人として生活していくことの中に、必須の要件として組み込まれている「人間の条件」と言っていいほどの宿命になっているのではないかと思ったのである。対立する思いのなかに、人は存在し続けるのではないか、そんな風に思えたのである。


                               2019.4.20        佐々木利夫


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産んでくれてありがとう