動物も笑うのか、そんなこと自分で研究したこともないし、書いた本に出会ったこともないような気がしている。だから本当のところ、動物が笑うのかどうかよく分からない。チンパンジーや馬に、笑いに似たような表情の写真を見たような記憶があるけれど、本当におかしかったのかどうかはよく分からない。

 それでも人間が笑うのは、人種や年齢に関係なく人類としての世界共通の表情のように思える。人間がなぜ笑うのかは様々な研究があるようだが、他者とのコミュニケーションの一種として使われていることに違いはないようだ。

 ただ人は笑うと言っても、年がら年中笑っているわけではない。一種の感情表現としての笑いであり、まさに喜怒哀楽に対応して変化する表情の一つとしての笑いなのだろう。

 しかも、その笑いにも様々なレベルがあり、更に個人ごとに閾値というか、笑いの沸き起こる程度が異なっている。つまり、全然おかしくないから少し笑うへ、そして大いに笑うまで様々な程度があり、その笑いにも皮肉な笑いや付き合いの笑い、更には爆笑にいたるまで多様だということである。

 妻と同じ番組をテレビで見ているのに、彼女が声を出して笑うのに、私はそれほどおかしくないという場合がある。頬を緩める程度だったり、まるでおかしくない場合だってある。つまり笑いの程度は、人それぞれの個性というか、個々人の感性に左右されていることが分かる。

 つまり、笑いは各人によって異なるということである。だから、私が見ていてさっぱりおかしくないからといって、他人も同様におかしくないとは限らない。まさに笑いは個別だろうからである。

 そんなことはしかつめらしく考えるまでもなく、当たり前に分かることである。にもかかわらず、この頃のテレビが笑いすぎるような気がしてならないのはどうしてだろうか。別にテレビが笑うわけではない。テレビに映っている人たちが、なんだか笑いすぎるように思えてならないのである。

 それは私が加齢に伴って、おかしさにというか笑いに対する閾値が高くなり、笑いに対する反応が鈍くなったからなのかもしれない。普通の人なら笑うところなのに、私はその程度では別におかしくないといった、笑いに対する感度が鈍くなっているのかもしれないということである。

 だとするなら、それは私の鈍さの問題であって、こうしてわさわざ取り上げる必要などないだろう。単に私だけの個人的問題だからである。

 それはそうだと思いつつ、それでも視聴者番組に出ている多くの参加者や、アナウンサー同士、トーク番組の参加者やゲストなどなど、複数の参加者が出てくるテレビ番組の人たちなどが、のべつくまなく笑いすぎているような気がしてならないのである。

 おかしかったら、笑ったっていいとは思う。笑いはまさに自分の気持ち次第であり、他から強制されたり抑制されたりするものではないからである。そのことは分かる。笑いはまさに自分だけのものだと、何の疑問もなく信じている。

 でも、人は自らの笑いを自らセーブすることも同じように行ってきたのではないだろうか。おかしいのを我慢して笑わないというのではない。おかしさの程度によって、笑いの表現をコントロールしてきたのではないかと言う意味である。

 それは決して笑うことを否定することでも、笑いを禁止することでもない。本当におかしいから笑うのであって、それほどおかしくないならば、笑いを我慢すると言う選択肢も、人は持っていたのではないかと言うことである。

 例えば落語を考えてみよう。異論はあるかも知れないけれど、落語の本質は客を笑わせることにある。笑いの本質を私は必ずしも知っているわけではないが、「楽しんで笑う」、そこに様々な笑いの意味があるように思う。落語もそうした笑いを目指しているのではないだろうか。

 だとするなら笑いは、一つの「協調」であり「共に笑う」ことだと思うのである。相手に迎合したり、隣に付き合って笑うのは、笑いの本質に反しているのではないだろうか。

 こう書くと誤解を受けそうだが、あえて言う。「笑いをコントロールする」ことは、別の意味で笑いを大切に思う心の現われだと思うのである。軽薄な笑いに埋没せず、本当に楽しい笑いに徹するために、時に笑いを検証し笑わない選択肢へと進む、そういうことだってあっていいのではないかと思うのである。

 でも現代の笑いは、余りにも軽すぎるように思えてならない。他人が笑う場面に接する機会は、寄席にも映画館にも行かなくなった我が身には、せいぜいテレビ画面から伝わることくらいしかない。

 そうしたとき、テレビは笑いすぎるのである。それほどおかしくないにもかかわらず、全員が笑うのである。そして笑いの同調者となることを会場や番組全体が求めており、そこに「笑わない」という選択肢は残されていないように思えるのである。

 笑うことをそれほど深く哲学的に考えているつもりはない。「おかしいから笑う、微笑む、腹抱えて笑う、頬を緩める」など、多様な笑いがあっていいと思う。

 それでもこの頃のテレビを見ていると、余りにも笑いの底が浅くなっているように思えてならない。「底の見えすぎる笑い」みたいな低俗な笑いが増えてきているように思えてならない。

 こんな言い方がふさわしいとは思えないけれど、「真剣に笑え」みたいなことを言いたいほどなのである。そして「少しコントロールして笑え」と説教したいほどにも、この頃のテレビは低俗に笑うのである。笑いすぎるのである。笑いが軽すぎるのである。


                    2019.5      佐々木利夫


             トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 

笑いすぎるテレビ