「・・・私は割り切っていますが・・・」と書いた投稿を読んだ(2019.4.27、朝日新聞、声「障害があっても生きやすい社会に」、神奈川県 39歳 会社員男性)。読んでいて、この短い一言にどこか違和感を覚えた。その投書で彼はこんな風に述べている。

 「私の8歳の娘は530グラムで生まれ、脳内出血で知的障害になりました。(周りからは親切にされているが、子供の病気などで)急遽休みをいただくのですが、上司や同僚から小言を言われることも多々ありました。私は割り切っていますが、周りを気にする親御さんはたくさんいると思います。・・・悩んでいる人たちの悩みが解消され、介護や看護、福祉が少しでも良くなってほしいと思います。

 確かに介護することを他者に卑屈になることはないし、子供のための介護の時間を職場に要求することも当然だと思う。

 しかし筆者の発言は、自分の娘に対する介護に必要とされる時間などを、当然のこととして会社もしくは周囲に要求することを意味しているのではない。その発言は「自らが我慢することを当然のこととして承認する」、それを前提として発言されているように思えてならない。

 つまり、「割り切ること」と「当然のこととして要求すること」とは、どこか違うのではないかということである。それは、微妙な違いなのかもしれないけれど、「開き直る」こととも少し違うような気がするのである。

 その違いを、「遠慮しつつ」とか、「恐る恐る」とか、更には「ビクビクしながら」、「小さくなって恐縮しながら」、などと言ってしまうと、その態度は余りにも「卑屈」に感じてしまう。

 私には筆者の意識が、自分の意識が会社なり同僚に理解されないことをあたかも当然のこととして諦めているように思えてならない。その上で、「世の中そんなものなのさ」と、自らの意識を封じ込めてしまっているように思えてならないのである。そして、会社や同僚に理解してもらえない現状や対立してる状況に、「開き直っている」ようにしか思えないのである。

 「介護のための理解」を求めることは当然だとは思う。だが、その当然であることを「権利として要求する」こととは、少し意味が違うのではないだろうか。

 社会がスムーズに動くためには、潤滑油を必要としている。それは権利と義務の対立であるとか、要求の正当性と相手の順応・承服と言った対立構造で解決するものだとは必ずしも言えないのではないだろうか。

 私には彼の言い分が、「権利の要求」に対して相手が「承服してくれない」状況に対して、自分の要求が当然の権利であることを前提に、「相手に理解されないことに諦め、その対立している現状を理不尽だと思いつつも、その状況に従う」ことを自らに強いているようにしか思えないのである。

 「相手が理解してくれないのだから、仕方がないではないか」と筆者は思っているのかもしれない。彼は、「私は正しく相手が間違っている」としても、それを相手が納得しないのだから「諦めるしかない」と思っているのだと思う。それが「そういう現状であることに割り切る」という発想につながっているのではないだろうか。

 それも一つの解決方法だとは思う。いかに不当だと思ったところで、「主張の通らなかった判決」であってもそれに従わなければならないのは理の当然だからである。「法律とはそういうもんなんだ」とか、「裁判所がそう判断するのなら仕方がない」などと「割り切ること」は、一つの社会に対する私たちの承認したルールだからである。自分の思い通りになるのだけが社会ではないからである。

 それはルールとして定められている事柄だからである。それは「割り切ること」がルールとして国民に求められているからである。

 だが、事柄が「社会の偏り」なり「身勝手さ」であるときには、まさかに法廷で決着させることに馴染まないもも多い。そこに、潤滑油という別の対処法があるのではないだろうか。権利を主張して相手と争うという方法があるかもしれないけれど、それが「理解してもらえない」ような事柄であるときは、「争う」という手段ではなかなか通じないからである。

 介護のための様々な思いは、少なくとも相手は理屈では理解しているのではないだろう。ただ、それが当事者から「当然の権利」とまでに主張されると、時に情緒的に反発してしまうのではないだろうか。そしてそうした情緒的な反発が、無理解、拒否、反論などへと結びついてしまうような気がする。

 つまり、そうした要求や要望が「可愛くない」として、情緒的な反発を招くということである。だとするなら簡単な対処法がある。「愛される対人関係を目指す」ことである。「ご迷惑をかけます」、「ありがとうございます」、「お世話になります」・・・、そうした言葉が潤滑油になるのではないだろうか。

 それは決して卑屈な応対ではないと思う。本音として感謝していいのではないだろうか。「私は当然のことを要求しているのだから、頭を下げる必要などない」と頑なに否定するのではなく、「感謝する」この態度だけで回転軸はスムーズに回っていくのではないか、そんな気持ちでこの投書を読んだのである。


                               2019.5.8        佐々木利夫


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割り切ることへの違和感