病弱の母の看護のために職場を辞めた男性(59歳)から寄せられた新聞投書である。男は自分をめぐる周囲の人々の思いを次のように綴る。

 「役立たぬ人間を許せない国」 「・・・近くに住む人にあいさつして通り過ぎた際、『男やもめ』と吐き捨てられたのです。配偶者もいない中年の私が仕事もせずに母親の介護に専念し、その母親は社会に貢献せず介護保険や医療費を浪費していることが許せないようです。社会に役立たない人間を許せない国になってしまったと感じます。これから日本はどうなっていくのでしょう。・・・」(2019.7.29、朝日新聞、千葉県、無職男性)

 少なくともこの男性は、通りかかった近所の人からこんな風に思われたと思っている。でも、本当にそうなのだろうか。私は彼の思いが信じられなかったのである。そしてそんなはずなど決してないのではないか、とまで思ったのである。

 彼が「男やもめ」と吐き捨てられるように投げかけられたと感じた相手は、少なくとも彼にとっては「あいさつを交わす間柄にある近くの人」である。見知らぬ他人なら、彼が「やもめ」であることすら知らないだろうからである。

 その上相手は、彼が無職であることも知っていたと感じている。なぜなら、単に「やもめ」(未婚なのか離婚して再婚していないのか不明だが)であることだけで、未就労者に結びつくことなどないからである。

 彼の受けた非難を前提とするなら、少なくとも相手は「やもめ、無職」と言う事情は知っていたことになる。確かに相手は「男やもめ」との言葉を彼に投げつけただけかもしれない。でも、彼はその言葉に「仕事をもっていない」ことに対する軽蔑、もしくは非難を感じたのである。

 しかも彼の言い分によれば、相手はそれだけでなく、「母親の介護に専念していること」、そしてその母親が「社会に貢献することなく単に浪費しているだけ」という事実も知っていたと感じている。

 ここで少し、冷静にこの事実を考えてみよう。かれの受け取った感情は、「男やもめ」と吐き捨てるように言われたこと、それに尽きるのである。

 この程度のことで、近隣の人にしろ相手がそこまで彼を非難するだろうか。「男やもめ」という存在が、問答無用の唾棄するほどの悪だと言うなら分からないではない。でも、少なくとも男やもめと言うことが、「吐き捨てる」ほどの要素を持った状態だとは思えないのである。

 また、母親を介護していることも、批判の対象になる要素だとも思えない。母親が介護保険を利用することは当然の選択であり、そうした制度を利用して治療なり介護を受けることが「医療費の無駄遣い」になると、どうして彼、または相手が思ってしまうのだろう。そうした風潮が社会に蔓延しているとでも言いたいのだろうか。

 そんなことで他者への批判が許されるなら、介護保険制度や健康保険制度そのものを否定しなければならなくなってしまうだろう。それを認めてしまえば、失業保険や生活保護制度なども含めた社会保障と呼ばれる分野のすべてが否定されてしまうことになる。

 確かに社会福祉に係る費用の増大が、国家財政を圧迫している事実を知らないではない。高額な医薬品の保険適用や二十四時間介護などの手厚い介護への要求が保険制度を圧迫していることも事実である。だが、そうした圧迫を制度を利用する者の責任にするような風潮が、国民の中に共通しているとはとても思えない。

 最近の世論調査によれば、国民が政府へ望むことの一番は社会福祉である。それにより保険料などの自己負担などが無制限に増加することまでは容認できないにしても、少なくとも福祉の充実は国民の一番の要請である。

 だとするなら、彼が「男やもめと吐き捨てるように言われた」と感じたことの背景には、二つの要素が考えられる。

 一つは、単なる彼の誤解ということである。彼が男やもめであることも、母親を介護していることも近隣の人たちは知っていたのである。そうした事実を、彼自身が卑屈に考えていたのではないかと言うことである。生活保護を受けることを、政府から乞食に対する施しのように感じて拒否する人のいることを知っている。

 また、彼が「男たるもの、結婚してこそ一人前」と感じていたなら、未婚であることに何らかの社会的なひけ目を感じていたということもありうる。また、離婚だとしても、彼に「自分に責められるような理由がある」と思い込んでいる場合もあるだろう。

 他人から恩恵を受けることを卑屈に考えてしまう人がいることは事実だろう。また、どこかで自分の罪の意識を抱いたままで過ごしている人もいるだろう。でもそれは、自分の殻に閉じこもって、自らを「不甲斐ない男やもめ」と卑下しているからではないだろうか。また、母親の介護費用も、「本来なら保護者である私が、きちんと働いて負担すべきなのに申し分けない」とする自己卑下の気持ちがそうさせているのではないだろうか。

 その場合は、少なくともこうした事実を知る他者が、非難の気持ちを込めて彼に接するような態度を示すようなことはないと思うのである。多くは同情であり、せいぜいが無関心であって、批判につながるようなことはないと思う。

 考えられるもう一つは、本当に知人が彼を非難しているケースである。でも、それは決して「男やもめ」や「母親の生活力」に対する非難ではない。それ以外に、例えばゴミ屋敷と化した彼の自宅が近隣に大きな迷惑を及ぼしているとか、場合によっては彼なり母親が近隣に騒音や悪口などの嫌がらせを繰り返し、多大な迷惑をかけているような場合である。

 私には、彼の言い分である「男やもめ」と吐き散らすように言われたことが、「役立たぬ人間を許さない国」とまで言われるような、社会的な現象にまで結びつくようには思えないのである。誤解を承知で言うなら、こうした思いは彼の被害妄想のように思えてならないのである。社会はそこまで冷たくなってはいないと思うのである。ましてや、「これからの日本はどうなってしまうのでしょう」と嘆くのは、誇大な妄想になっているように思えてならないのである。


                    2019.8.16        佐々木利夫


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男やもめの自己卑下