こんな新聞投書を読んだ(2019.7.8、朝日新聞、東京都会社員、34歳女性)。バスの降車ボタンを押すのが大好きと言う我が子を巡る投書である。

 「子を連れて気付く 人の温かさ。・・・保育園児の息子はバスの降車ボタンが大好き。先に誰かに押されて泣いたとき、もう一度押させてくれた運転手さんがいました。・・・『私の降りる所でボタン押して』と、パンまで下さったおばあちゃん。・・・オモチャ問屋さんの前でじっと見ていたら、大好きなプーさんのぬいぐるみを下さったおじさん。・・・

 投書は、我が子に親切にしてもらった相手への感謝の言葉で綴られている。感謝がおかしいと思ったわけではない。確かに嬉しかったのだろうと思う。そうした気持ちが、「温かさ」と感じたのだろうことも分からないわけではない。

 それでも私はこの母親であろう会社員の女性に対して、どことない身勝手さを感じてしまったのである。この投稿は、自分の子供に対して親切にしてもらった、優しさを受けた、そのことを感謝する文面になってはいるのだが、それは単なる「優しさへの感謝」という言葉で締めくくっていいのか、どこかで疑問を感じてしまったからである。

 私はそうした母親の思いの背景に、「相手に対する優しさの強要」みたいな感触を感じてしまったのである。優しさとは、受けることへの単純な感謝の気持ちである。ある行為をするように仕向けたり、強要するなど、相手の好意を意図的に求めるものではないと思っている。

 ではなぜ、私はこの新聞投稿に「強要さ」を感じてしまったのだろうか。これから書くことは、投稿には書かれていないので、まさに私の勝手な独断である。だから、私の身勝手な偏見かもしれないけれど、私には見え見えの押し売りみたいな感情が見えてしまったのである。

 「バスの停車ボタンを押したい子供」の存在は、特に前提なく理解できる。そして誰かに先に押されてしまったことを不愉快に感じてしまう子供がいるだろうことも理解できる。恐らくその子は母親に向かって、「僕が押したかったのに・・・」と不満を述べ、抗議したのだろう。「押したい・・・、押したい・・・」と駄々をこねたかもしれない。

 そこまでは、私にも特に違和感なく理解できる。だが、次に起こすべき母親の行動が見えてこないのが気になるのである。子供の「押したい」、「押すのが遅かった」、「そのことが口惜しい」、そうした心の動きが分からないというのではない。

 そうした子供の心に対して、「たしなめる」、「我慢させる」、「自分の望みがかなわない場合がある」ことなどを、その子に教えるのが親としての役目だと思うからである。

 それを教えないことで、この子は泣きだしたか、大声を出し始めたのではないだろうか。そしてその声はバスの運転手にまで届いたのではないだろうか。運転手が停車ボタンをリセットしたのが、その子に対する親切によるものなのか、その子の騒ぎ声が他の乗客の迷惑になると考えたからなのか、それは分からない。通常の子供のぐずりなら、運転席までそのぐずりが届くことはないような気が、私はしている。

 運転手が仮に親切で停車ボタンをリセットしたにしても、それはすべきではなかったように私は思う。それは親切でもなんでもなく、たんなる子供の理不尽なわがままに迎合したに過ぎないように思えるからである。

 おばあちゃんの行為もそうである。「私の降りるところでボタンを押して」の声かけは、その子のくずりが何度も繰返されているを示している。なぜなら、その子が「押したいのに押せなかった」ことに対して泣き出したということは、次のバス停での停車を指示できなかったことを意味している。つまり、既に停車ボタンは押されているのだから、おばあちゃんに代わってもらうとなど無理だからである。なぜならその親子は次の停留所で降車するからである。

 だとするならおばあちゃんのこの言葉は、降車ボタンを押せなかったその場での出来事ではないことを意味している。そうした子供のぐずりを記憶していたおばあちゃんが、次にその子と同乗したときの発言だということになる。その子は停車ボタンを押せなかったときには、いつも大声で泣き出していたということである。

 教訓。その子のために、その子の降りるバス停の直前では、乗客は下車したくとも誰一人停車ボタンを押してはいけないのである。その子のわがままの教訓は、既にバス乗客に定着していたということである。にもかかわらず、それに気付かなかった乗客の一人がその不文律を犯してしまったのである。バス乗客は、何があろうとも、その子のわがままを優先しなければならなかったのである。だから、同乗しているおばあちゃんも、バスの運転手も、その子の要求に従わなければならなかったのである。

 それは、次のオモチャ問屋の行動でも分かる。その子はぬいぐるみじっと見ていただけではない。店の中の店主に聞こえるぐらいに大声で、「クマのプーさんが欲しい」とわめきたてたのである。店主がその声を聞いて、そのオモチャを無償でくれるまで、母親はその子のわがままを制止することなく、放置したのである。母親やには、その代金を支払おうとする気持ちなど、または子供に諦めされることなど、我慢させることなど微塵もなかったのである。

 どこまでが躾として許容すべきことなのか、必ずしも私に理解できているわけではない。それでも、世の中に自分の思い通りに行かないことがたくさんあるという事実を、私はこんな小さな頃からでも教えていかなければならないと思っている。それが、世の中を生きていくと言うことなのだと、私はどこか頑ななまでに思っているのである。


                               2019.7.19        佐々木利夫


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優しさへの誤解