朝日新聞のコラム天声人語は、最近こんなことを書いていた(2019.11.24)。

 絶滅したネアンデルタール人は、私たちの祖先であるホモサピエンスよりも頑丈でたくましかったそうである。そしてそのことを契機として、「・・・じつは生命の歴史をみると、生き残ったのは強者ではなく、変化に適応できる弱者のほうでした」と静岡大教授の著書を引用する。。

 その上で、「私たちはつねに未来を意識し、いまを生きている。それを可能にしたのは、弱さゆえに集団性を強め、その過程で仲間が何を考えているかを『想像する』という力を得たこと。『想像は一人ひとりが異なります。その多様性が生き残りのカギとなったのでは』」とも引用する。

 そして「環境の変化に適応できない生き物はいつかは淘汰されていく。人類も例外ではない。その強くて弱き存在のあすを想像して、しはし謙虚な気持ちとなる」と結ぶ。

 特に違和感なく読んでいたのだが、「弱さ」=「多様性」みたいな展開に、どことなく引っかかってしまった。多様性が生き残りのカギとなったとする見解そのものは、それなり理解できる。強者は自動的に環境にも生活にも強いのだから、生き残りをそれほど意識することなく生存していけるだろう。これに対して、弱者は生き残る可能性が低かったからこそ、「生き残ること」が進化の最重要課題になっただろうからである。

 でも天声人語氏の考えは、他の著書からの引用ではあるけれど、「生き残ったのは強者ではなく弱者だった」にある。そしてその弱さとは多様性であり、「多様性が生き残りのカギ」となったとする。そこのところが、どこか飛躍があるように思えるのである。

 この論法でいくと、多様性とは弱者に連なるものとして考えられている。でも、弱さだけが多様性を構成しているとするのは誤りではないだろうか。強さもまた多様性の構成要素だと思うからである。

 もちろん「強さ」はその強さゆえに、強さを武器とする単独進化の方向を目指す可能性が多いかもしれない。牙があるのだから、その牙だけを頼りに生物界に君臨することがあるかもしれない。もちろん、牙が頼りということは、牙の通用しない環境への変化があった場合には、そのまま絶滅へとつながっていくかもしれない。

 でも考えても欲しい。「強さ」は、それだけで「生きる力」になるのである。その牙ゆえに「生き残れる」のである。それを適者生存と呼んでいいのか、それとも弱肉強食と切り捨ててしまっていいのか、必ずしも私に分かっているわけではないが、強いものが生き残るのは事実だったのではないだろうか。

 恐竜が数億年を生延びたのは、彼らが強者だったからではないだろうか。確かに恐竜は絶滅した。その原因は地球寒冷説であるとか隕石の衝突による説など様々ではあるが、だからと言って現在絶滅していることを以て、彼らが強者であるがゆえに絶滅したと解するのは間違いだと思うのである。

 巨大な変化の前には、強者や弱者の区別など無意味であるように思う。巨大隕石の落下が恐竜を滅ぼしたのかもしれない。でも、そのときに滅んだのは恐竜だけではなかったはずである。強者も弱者も含めた多くの種が地上から絶滅したはずである。

 そして生き残ったのは、弱々しい小さな生物だったかもしれない。でも生き残った原因が弱かったことによるものではないと思うのである。そうした生存結果を身体の大きさや有毛による身体保護機能、更には気温の変動への耐性、餌としての動植物の生存などと関連付けることを否定はしないけれど、単に強者弱者で区別してしまうことに私は抵抗を感じてしまう。

 こうして考えてくると、強者弱者の区別そのものが分からなくなってくる。単純に恐竜は強者であり、ネズミは弱者であるとする、そんな区別は強弱の一面を捉えているだけに過ぎないのではないだろうか。つまり、大きな体格が強者であり小さいことだけで弱者とする区別は、両者の直接対決、それも一対一対決の場合にだけ言えるのではないだろうか。

 それも同じ肉食同士の個別対決の場合にのみ、言えることなのではないだろうか。ライオンと蟻が直接一対一で戦う場面を想像し、両者の体格差からライオンを強者、蟻を弱者とするのは、強弱の一面だけを捉えた偏見ではないだろうか。ライオンが餌となるカモシカを襲う。逃げるカモシカ、追うライオン、果たしてどちらが強者なのだろうか。

 しかも、こうした発想は強弱の本質を混乱させるように思う。ライオンと蟻の戦いを取り上げたが、蟻だって地球上で最も弱者であることはない。蟻もまた、更に小さな対象に対しては強者として機能することもあるからである。

 そうすると強者弱者の違いはどこにあるのだろうか。変化する環境に適応できる能力の強さ、その強弱を基準に判定するのが妥当なのだろうか。

 天声人語氏の発想は、恐竜は体格の大きさだけから強者であるとし、書いてはいないけれどネズミのような攻撃性の少ない小型生物、そしてそこから進化した人類を弱者と位置づけ、結果だけから弱者だけが生き残ると結論付けているように思えてならない。

 生き残ることだけを強弱の指針とするなら、ウイルスは地球環境のあらゆる変化に適応して、現在も進化し続け生き残っている。ウイルスは生物でないと言うかもしれないが、海に棲むシーラカンスや肺魚やカブトガニ、地上ではゴキブリやカモノハシやナメクジウオなどなど、生きている化石と呼ばれる生物は多数生存している。

 彼らは人類の生存している数十万年など物の数でないほど、数億年、数十億年を生延びている。人類より生存期間の長い生物は、地球には数多く存在しているのである。生き残りだけを強弱の基準とするなら、シーラカンスが最強ということになる。決して恐竜が強者だった訳ではない。そして人間が弱者の代表だったわけでもないのである。


                    2019.11.29        佐々木利夫

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弱者の行末