それは果たして勇敢な若者として称賛されるに足る行為だったのだろうか。こんな新聞記事を読んで、ふと勇気とは一体何なのか、よく分からなくなってきた。

 それはこんな記事であり、こんな言葉で始まっていた。

 「全米ライフル協会におびえる政治家が銃ロビーの暴走を許してきた結果、いまやアメリカは人よりも銃の数の方が多くなってしまった」。そして筆者はこう続ける。「そんな中でも、銃による暴力をものともしない真の英雄的行動がある。命の危険を顧みず、銃撃犯にとびかかる生徒たちだ。」(2019.5.24、朝日新聞、コラムニストの眼、「勇敢な若者2人の死 銃の暴力 議会こそ行動を」、投稿者ニコラス・クリストフ、ニューヨークタイムズのコラムニストか?)。

 アメリカ・コロラド州の高校で、卒業を間近に控えた5月7日、教室で銃撃事件が起きた。犯人はその学校の生徒ではないようで、「狙撃犯は男2人」とされている。このとき授業を受けていた3人の少年が狙撃犯にタックルし、銃を取り上げることに成功したそうである。だが、そのうち少年2人が狙撃犯による銃撃で死亡してしまったようである。

 この少年、なかでも死亡した2人にたいして、アメリカあげて賞賛の声が高まっているようである。賞賛の言葉を、記事の中から拾ってみよう。「彼らはとても勇敢でした」、彼らの行動は、別の事件で別の人の取った「勇敢さを思い出させる」、「・・・英雄にふさわしい」、「英雄的行為」、「英雄に敬意」などなど・・・。

 ただ私には、彼らの行為を賞賛する気には、どうしてもなれなかったのである。「愚かだ」とまでに言い切ってしまうには抵抗がある。「無駄な死」などと言うつもりも、さらさらない。恐らく少年二人の行動があったことで、残る生徒が被害に合わなくて済んだのかもしれない。彼らは身を持って被害の拡大を防いだのであり、そうした行為はまさに英雄的であるとの賞賛の声のあることが分からないではない。

 それでもなお私は、彼ら三人の選んだ「狙撃犯にタックルする」という行為を、英雄的だとか勇敢だとは思えないのである。命が地球よりも重いなどと紋切り型の意見を主張するつもりはない。ただ私には、「自分の命を犠牲にしてまで他者の命を守ること」の意味をつかみかねているのである。

 この事件とは何の関係もない、アメリカのテレビドラマを見ていたときこんなセリフに出合った。ドラマはこんな一言を発しいていた。「・・・いくら正しくても、死んだらお終いだ・・・」。この事件とはまるで無関係な、単なるドラマの中のセリフの片鱗である。でも私には、身に沁みて伝わってくる一言であった。

 何を以って勇気というのか、私が勇気の意味をきちんと理解しているとは必ずしも言えない。それでも、我が身の命と比較するだけの意味が、勇気という観念の中に存在しているようにはどうしても思えないのである。「死を賭するに足る勇気」・・・、そんな行動があるとして、果たしてそれを勇気と呼んでもいいのだろうか。

 そんなことを思いつつ勇気とは何かを考えているときに、ふと、かつて読んだ小説を思い出した。三浦綾子の「塩狩峠」(しおかりとうげ)という小説だったように思う。

 現在のJRが、まだ国鉄と呼ばれていた時代の物語である。時は明治、北海道の名寄駅から札幌へ向かう列車に乗っている主人公。旭川近くの塩狩峠付近で、彼の乗った最後尾の車両の連結部が外れるという事故が起きる。乗客の一人ではあったが同時に国鉄職員でもあった主人公は、乗客を守るため暴走する列車のレールへ飛び降り下敷きになる。つまり、自らの命を犠牲にして乗客の命を救ったということである。

 この物語は実話を基にして作られたと言われ、美談として語り継がれている事件である。私が旭川に勤務していた当時、峠近くにあった塩狩温泉へ何度か訪れたことがある。駅舎近くの萩の花がきれいに咲いていた景色を記憶している。

 この小説は、読んだ当時から違和感があった。それでも物語の主人公が実話でもキリスト教徒であり、かつ作者である三浦綾子もキリスト教徒だったということで、一種の宗教にからんだ美談として一応の気持ちの整理はつけていたのだが、どうも美談だとする捉え方に違和感が残ったのである。

 自己犠牲と宗教とはどこかでつながっているのかもしれない。現在でも、自爆テロはそのほとんどが宗教と結びついており、聖戦であること、宗教を守る信念みたいな動機が、自爆の基本になっている。もちろん、ここて取り上げたアメリカの銃撃事件は、少年二人が自己犠牲によって他の少年の命を救ったというストーリーであり、自爆テロとは真っ向から対立する現象である。

 でも、そこに似たような意識を感じるのは、私の思い過ごしだろうか。「信念」とは何かについても、私はまるで分からない。人を救うと言う信念や国を護ると言う信念なら、その信念に命をかけることは勇気なのか。そして更にはその他様々な、例えば「名誉を守る、「家族を守る」、「悪から守る」、「善への迫害から守る」、「あなたのためを考えてやったことだ」、「この国にとって良かれと思ったからやったことだ」、「こんなセクハラは許されない」、「こんな教育を許してはいけない」、「こんな政府」、「こんな政治」、「こんな思想」、「こんな人種」、などなど、己の信念に基づく行動は、「勇気ある行動」として称賛されるのだろうか。

 果たして信念とは、己自身による評価なのか、他者の評価なのか、常識とか社会通念による評価なのか、それともそれとも国際的なグローバルスタンダードで決められる評価によるべきものなのか・・・。

 日本の俚諺にも、「匹夫の勇」という言葉がある。恐らく中国から来た言葉だとは思うのだが、「思慮分別のない血気にはやるだけのつまらない勇気」というほどの意味であろう。

 つまり、「勇気である」ことだけでは、その行為が「勇気」になるわけではないと言うことである。勇気には、それが勇気に足るだけの理屈なり根拠なり背景が必要だということである。

 そして私は思うのである。果たして「自分の命を賭けるほどの背景」というものが、果たして存在するのだろうか・・・、と。「他人の命」なら賭けてもいいとする思いを抱いた者は、政治にしろ暴力団組長にしろ、組織の長としての地位にある者として存在することは、歴史上枚挙の暇もないほど多数である。

 でも、ことは「自分の命」である。「死んで花実が咲くものか」は、良く言われる諺である。ならば、勇気とは死者以外にのみ使われる言葉なのだろうか。助けられた者が、助けた者へ追悼の言葉として捧げるだけの、そんな軽い意味しか持たないものなのだろうか。

 もう一度繰りかえす。そんな軽いものを、果たして勇気と呼んでいいのだろうか。そんな気持ちを勇気と名づけ、死とパラレルに並べられるような価値を持ったものと考えてもいいのだろうか。


                               2019.6.7        佐々木利夫


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それは勇気なのか