「絶無使用 日本福島米及食材」。5年ほど前、香港の和食店でそう大書したポスターを見かけた。きつすぎる文面にため息がこぼれた・・・(2019.2.5、朝日新聞、天声人語)

 「放射能汚染の心配のある食材は、一滴たりとも使っていません」、絶無使用とはそうな意味なのだろう。東北大震災で原発事故が起きたのは、今から8年前の2011.3.11のことである。震災の死者行方不明者は1万8千人を超え、建物の全半壊は40万を超えた。また原発の爆発事故で広大な地域が放射能に汚染され、今でも避難地域に指定されたまま不安な日常を過ごしている人が多数いる。

 天声人語子は、現在では安全なのにまだ放射能汚染食品の風評被害が収まらないことを嘆いているのだろう。それは「・・・知事は安全性を解いて回ったが、輸入再開の確約を得るには至らなかった・・・」との文章からも読取ることができる。

 それでも私は香港のこの食堂が、「絶無使用」と客に向かってこんな表記をしていることに、どこか理解できるような気がするのである。張り出した店主の気持ちは、「私の食堂で出している商品には、放射能に汚染された日本の食材は一切使用してはおりません」とする覚悟を示したものだろう。

 それはもちろん、放射能汚染の可能性のある食品に対する顧客の拒否反応を意識してのことだとは思う。そうした拒否反応と風評被害との関連に、卓上四季子は割り切れないものを感じたのであろう。日本の政府がこれだけ真剣に安全を宣言しているのに、それがなかなか伝わらないことを意識してのことだろう。

 それでもこの食堂店主の「絶無使用」への思いは、私たちが生物として生き延びてきた基本的な習性を反映したものではないかと感じたのである。

 私たちが危険を感じるのは、五体の感覚によるのが基本である。今でこそ科学的に様々な数値化されたテータが安全性や危険性を私たちに示唆してくれるようになっている。それでもそうした示唆は、私たちの感覚とはまるで別個のものとして独立して存在している。

 今では私たちはそうした数値だけを頼りに、そのものが私たちの身体にとってどこまで安全なのかを判断しようとしている。ある測定値が「10以下」なら食べても安全であり、「11を超えたら何らかの身体への障害が起こり」、「20を超えたら危険である」と、判断するのである。

 私たちが自らの身体に感じるいわゆる「五感」によって、どこまで安全性を確保できるのか、私はきちんと理解しているわけではない。それでも、「五感が頼り」だったのは、私たちが生物として生き残るための唯一無二の手段だったからではないだろうか。

 恐らく「河豚」を五感を頼りに食した者のうち、多くの者が命を落としたことだろう。それは五感による選択とは必ずしも一致しないような気がする。五感は恐らく「見慣れぬものは食うな」、「刺激のあるものは口に入れるな」を伝えるものだろうからである。

 つまり、「見慣れぬもの」は少なくとも「安全性の保証」にはならないからである。それは、「確認できないものは危険」と判断することである。もちろん「確認できない」ことと「危険である」こととは、何の関連もない。

 だが、「確認できたもの」はそのまま「安全である」と同義である。そこから一つの格言が生まれる。「君子危うきに近寄らず」である。そして「危うき」の判定は、確認できていないことである。それは「確認できていない」のだから、場合によっては危険でない場合も含まれる可能性があるということである。

 だから無知による危険の判定は、正しいかどうかの保障はないことになる。これは一見理不尽である。「危険が確認できた」ことを危険と判定するのはいい。でも「危険でないかどうか分からない」にもかかわらずそれを危険と判定してしまうのはむしろ間違いである。

 それでも私たちは、危険の判定を「安全でない」ことの範囲を超えて、「安全かどうか分からない」にまで範囲を広げてしまった。そうすることによって、確かに安全の範囲は狭まることになる。安全であるにもかかわらず、「分からないから危険とみなす」ところまで危険の範囲を拡大してしまったからである。

 「分からないから危険」とみなしたところで、「分からないもの」を無差別に危険範囲へと押し込めたわけではないだろう。色や形や臭いなどなど、安全と判断された様々なものの特徴を類推して判定しただろうことは疑う余地は無いだろう。

 それでも私たちは、「疑わしい」、「安全が確認できない」ことを「危険」の範囲に押し込めだのである。それが「近寄らず」の鉄則だったのである。そしてそうした危険回避の思いの中で、私たちは種としての存続を維持してきたのである。

 そうした意味では「放射能」は危険な範囲に属するのである。しかも現代は多様な社会である。「それしか食べられるものがない」社会ではなく、飽食と言われるまでにふんだんな食に囲まれた社会である。

 一つしかなくて、「飢えか生延びるか」を選択しなければならない時代は少なくとも多くの社会の中ではなくなった。作り話だと言われているが、フランスのマリー・アントワネットの寓話に、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」との発言がある。まさに現代はパンが手に入らなければ、更にはパンが危険の可能性があるなら、更に言うならパンに不当かも知れない風評があるのなら、その代わりにご飯でもお菓子でも麺類でも、多様な食材が氾濫しているのである。

 そんなときに、あえて危険を冒してまで「危険かもしれないもの」を口にする必然はないのである。近寄らなければ安全なのである。近づく必要などないのである。それこそが、最小の努力で生き残るためのもっとも簡便かつ確実な手段なのである。そんな場面に遭遇したとき、努力して安全を確認する必要など果たしてあるのだろうか。

 確かに、虎穴に入らずんば虎子を得ずとも言う。安全のみを願うだけでは、萎縮が続いてしまうかもしれない。それでも確認せずに危険に飛び込むことは、匹夫の勇とも言われる愚かな決断でもあるだろう。

 それでも私は思う。益なき危険選択は、虎子を得る確信なり信頼がないという意味で、選択してはいけない決断なのではないだろうか。

 話をもとに戻そう。ここに二つの食品があるとする。一つには「安全かも知れないけれど、放射能汚染地域で作られた食材」が使われている。もう一つは「放射能汚染地域とは無関係な地域で作られた食材」使われているとする。あなたはどっちを選ぶだろう。

 何ならもう一つ、選択肢を増やして考えよう。三つ目の食品には、「放射能は含まれているが、政府がその放射能は安全な基準値以下であると保証した食材」が使われているとする。

 「疑わしい」、「完全に安全」、「政府の保証した基準値以下」、の三食品である。しかも仮に「疑わしい」は一食、「安全」が数十食、「基準値以下」が三食あったとする。更に「疑わしい」や「基準値以下」の食品が、特別に美味とは言えず、同じような格付けにあるような場合、あなたは昼ごはんにどれを選びますか。私にはその答えは決まっているように思えてならないのである・・・。




                                     2019.2.14        佐々木利夫

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絶無使用