最近の新聞に載った、「コロナ禍の記憶 覚えていよう 歴史は私たちのもの」と題する投稿記事である(朝日新聞 2020.4.25 多事奏論、朝日新聞編集委員 吉岡桂子)。

 投稿はこんな風に書き出している。
 「真実をのぞく、『窓』として愛された日記の作者が、中国のネット上で激しく攻撃されている。『売国奴』−。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて封鎖されていた武漢市で暮らす作家、方方さん(64)に対して、そんな言葉が飛び交う。

 いわゆるネット炎上と呼ばれる現象の一つであろう。炎上そのものを告げるニュースは、色々な場面で見かけるけれど、なぜか「炎上」と名づけられたとたんに、その行為が悪になってしまう。それがいつも気になっていた。まあ、社会が認めるであろうと解される特定の事実に対して、批判的な意見の集まりを炎上と呼び、人気が出るような現象は、人気とか賞賛とでも名づけるのだろうか。

 そんな気持ちでこの記事を読んでいるうちに、この投稿者の立ち位置が気になってきたのである。それは、そもそも投稿者は最初から「日記の作家」を擁護する立場に立っていることが明らかだったからである。つまり、投稿者は最初から理屈抜きにこの作家を擁護する立場なのである。

 擁護に対するデータ的な記述は、以下の部分だけである。
 「(作家の書いた)日記は身近な生活や死の悲しみを丁寧につづり、情報を隠蔽した政権への怒りも隠さない。3月24日までブログに発表された全60編は、中国以外で1億人以上が読んだとも言われる。・・・ところが、英、独語での出版が公表されたとたん、中国内で攻撃が始まった

 この中で、データ的と言える部分は、「発表された作品が全60篇であること」、「中国以外での読者が1億人以上であること」の二つくらいであろうか。しかも、その数値の裏づけはどこにも記載されていない。事実なんだから、追求せずに私を信じなさいとでも言いたいのだろうか。

 私はこの作家のことをまるで知らないし、その作品が炎上の対象とされていることも知らない。投稿から理解する限り、炎上は中国でなされているようなので、炎上となるメディアそのものが私の周囲にはなく、しかも中国語を全く理解できない私に、そうした事実を理解することなど不可能である。

 だから「知らん奴は黙ってろ」と言われてしまえばそれまでなのだけれど、新聞と言う公表メディアを使って一方的な論述を展開していることには、いささかの抵抗がある。常に公正・中立であるべしとの理屈は、ない者ねだりであることくらい知らないではない。しかし、あからさまに偏った意見が、しかも深部者の編集委員からなされるようなことは、やはり気になってしまう。

 この作者は女性らしいのだが、投稿者は同性としての立場から、どこか意見が偏ってしまっているのだろうか。そのことは投稿者が明言しているわけではないので、断言するのはそ止そう。

 私が気になったのは次の文言である。
 「国であれ会社であれ、自らが属する集団への批判は愛があるからだ。悲しい現実を伝えるのは良心があるからだ。それなのに、逆のレッテルを貼って攻撃している」。

 つまり投稿者は、なんの前提もなく、「自らが属する集団への批判は愛なり良心があるからなのだ」を、読者に強制しようとしてるのである。このことは、「批判することだけが愛」であることを所与としている。このことは逆に言うと、批判を批判するような行為は愛からは除外されているのである。

 それはそうだろう。自国を批判した文章を売国奴とした炎上から擁護するのが投稿者の目的なのだからである。でも、「自国に対する批判」を、何の根拠も示さずに「愛」「良心」によるものだと強要することで、果たして他者を説得できると投稿者は思ったのだろうか。それが許されるなら、どんな行為も全て許されることになってしまうのではないだろうか。

 たとえその行為が戦争であろうが、テロ行為であろうが、はたまた自爆のような仲間の殺戮を伴うものであろうともである。なぜなら、愛や良心が基本にある行為は、すべて正しいからである。愛を抱いている限り、その行為は擁護されるべきであり、良心を背景としたどんな行為も攻撃してはならない行為になるからである。

 ならば、自国を擁護する行為も、自国を批判する行為も、ともに愛であり良心から発露したものだと考えることは間違いなのだろうか。つまり、批判する意見を売国奴と煽りたてるような炎上行為もまた、自国への愛からきているのではないかということである。

 それを「批判は愛」で、「批判を批判するのは愛ではない」とし、それを何の論証もなしに、「愛」という言葉だけに頼って正当化するのは、間違いだと思う。ましてや投稿者は朝日新聞の編集委員である。編集委員の立場がどういうものなのか、私は知らない。

 ただ、知らないながらも、つたない知識から類推すれば、マスコミの一員として、そしてジャーナリストの一員として、一種の中立・公正への自覚を期待される立場にいる職業だと思うのである。

 先にも書いたように、中立・公正は言うほど簡単なものではないだろう。不可能とすら思えるほどにも、遠いものなのかもしれない。だからこそ、その職業には一層の努力なり研鑽が求められるのではないだろうか。ましてや編集委員たる地位にある者なら、更に一層に・・・。


                          2020.4.26        佐々木利夫


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