この25日に全国的な緊急事態宣言は解除されたものの、相変わらず新型コロナウィルス騒動に浸かったままの毎日が続いている。感染者数が、国内はもとより世界的規模で日々拡大し、それも国によっては間もなく半年にも及ぶ行動制約を負わされ、国民からの悲鳴が聞こえてくる。
日本でもマスクと自宅待機を基本とした自粛という形の行動規制が、国民全部に課せられている。非常事態宣言の解除はされたものの、これにより外出が制限されたり自粛を求められている。その結果、娯楽、飲食、興行、行楽などなど、人が集まるどんな催しも自粛というムードの中に押し込められている。その徹底振りは、老親の見舞いや家族の葬式すら満足に行えなくなるほどまでになっている。
会社はテレワークとやらの、パソコンで仕事をすることが基本とされる。だから出社に及ばずになり、学校も同じような意味で休校になる。旅行や通勤による移動が減少して、マイカーは車庫から出ることはなく、航空機、電車、バスなどもガラガラである。ガソリンは売れず、マイカーも売れない。今やまさに国民こぞっての閉塞状態にある。
そこに振って湧いたような政府の提言が、時雨のように私たちにまといつく。「新しい生活様式」と称する提言である。提言は様々な提案で組み立てられているが、つまるところコロナ感染拡大を防止するために、これまでの国民それぞれの生活スタイルを、意識的にそして意図的に変更して欲しいということである。
そして更にそれに追い討ちをかけるように、北海道には「新北海道スタイル」と銘打った要請がかぶさってくる。
それらの意味が分からないというのではない。マスクを日常生活の中での基本に置くことや、飲食店や娯楽施設などでの人々の密度を薄くするために座席数を減らすこと、観光や海外旅行なども減らすように心がけるなどが、「人から人」と言われるウィルスの感染経路を絶つための方策として効果がないとは思わない。
こうした生活様式の変更は、冠婚葬祭は少人数でとか、人が集まるような場所での会話は控え目にしたり、スーパーのレジに並ぶときには前後にスペースをなど、生活のあらゆる分野に適用される。
これらの基本は「社会的距離」(ソーシャル ディスタンス)などと呼ばれ、人と人の距離に関する変更である。必要だからやれ、そうしないとコロナで死ぬぞ、そうした意味が分からないではない。
だだ私はこうした規制、それをお願い、要請、命令、指示など、どんな形にせよ、外圧による精神的拘束により達成しようとするのはどこか間違いのような気がしてならない。
私達に生活は、単に私の生きてきた80年くらいの短い期間でも少しずつ変化してきていることだろう。それは迫りくる危険からの回避もあるだろうし、時には経済的な豊かさや貧困による変化もあっただろう。また時には、結核や小児麻痺、更にはインフルエンザなどの病気からの逃避など、衛生的な要請からくる変化だったこともあるだろう。
「○○すべし」と言った権力者からの指示や命令が、たとえ罰則などを伴う強制でなく、自粛と呼ばれるような任意を裏づけとするものであったとしても、私達の生活に定着していくものなのだろうか。もちろん過去の様々に私達の生活習慣を変えたような事例がないかと問われるなら、それを否定するだけの根拠は持っていない。
それでも戦争などによる、「国民の義務」みたいな行動の国家的要請はこれまでも多く存在した。中には治安維持法や徴兵令のように法的義務を伴い、時に現在の自粛警察のように周囲からの有言・無言の圧力による強制もある。ただ、それで定着したかのように見える私達の生活習慣が、そのまま私たちの生活に入り込んでいるかはかなり疑問である。
強制のたがが外れたとき、やがてその生活習慣は定着することなく消えてしまうのではないだろうか。もちろん定着したかに見える生活習慣もあるだろう。例えば「道」は、前の人が歩いた経路を後の人が辿ることからでき上がっていく。そしてほとんどの人がその経路を辿ることでそこが社会共通としての道になる。
しかし、例えば「贅沢は敵だ」みたいな慣習は、社会に容れられない規律として自然に消えてしまうのではないだろうか。人と人との対話の距離だって、夫婦、親子、友人、上司などの関連によって微妙に異なるはずである。そしてそれは日本人、韓国人、アメリカ人やイスラム社会などなど、人種や地域によってそれぞれ異なるのではないだろうか。
そうした他人との距離や、会話内容や社会生活などの習慣が、どんな原因でルール化されていくのか、私は知らない。貧富や相互扶助や宗教儀式などにより、与える影響には様々なものがあるとは思う。そうした中で、社会は自律的に定まっていくのかもしれない。
だからこそ社会生活の習慣が、上からの規律の押し付けや法的な強制などで他律的に定まっていくようなことは難しいように思う。
コロナ騒ぎを機会に、政治私たちにコロナウィルスと新しく関わっていく方法を模索すべきだと言う。でもたった一つの人と人の間隔を2メートル空けるという習慣に変えることだって、果たしてどこまで社会生活として定着させていくことができるかはかなり疑問である。
通勤電車や航空座席の間隔、学校や会社での机や座席の配置、商店での買い物客同士や店員との距離、あらゆるスポーツのルールや競技システム、映画館や飲食店での客の配置などなど、そして単に交差点で交通信号にしたがって向こう側に渡るような簡単な行動にしたところで、「前後の人との間隔を意識して歩く」を、「指示に従う」のではなく、まさに社会慣行として定着するような社会を、私たちは果たして実現できるのだろうか。
言葉として言うことはたやすい。でも社会に定着するためには、理屈で納得するだけでは足りない。習慣化するためには、自らの感覚に染み付いていくようなシステムでないと、「守る」ことはできても定着させることは困難なのではないだろうか。
新しい生活様式であるとか新北海道システムなどの言葉が、今後の社会を自律的に変化させていくための目標として提言されている。提言の意味が分からないではない。でも私には、その方向が決して定着することなどないように思えてならない。
人は、そして社会は、知らないうちに少しずつ変わることはあっても、決して外部から強制されて変わることなど、歴史的にもなかったように思う。それは「変える」のではなく「変わる」のであり、それも決して目に見えるようには「変わらない」と、私はどこかで確信めいた思いを抱いているのである。
2020.5.22 佐々木利夫
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