最近、「シマエナガ」を取り上げたテレビ番組を見た。シマエナガとは、体長14センチほどのフワフワ真白の羽毛に包まれた丸々とした小鳥である。北海道にしか住んでいないと言われている。しかも私はこの鳥の名前すら知らなかった。

 そもそも鳥に興味のある私ではないので、「あぁ、そんなものか」程度の反応でしかない。だが、「最近、この鳥がブームになっている」という話をアナウンサーがしていたのが、私のへそ曲がりアンテナに反応してしまった。

 特にシマエナガにへそが反応したわけではない。「ブームになっている」という表現が、この頃あちこちで耳にするようになってきたからである。シマエナガが、どこでどのように人気が出たり話題になっているのか、私には皆目知識がない。

 だから「ブーム」になっているのか、なっていないのか、そんな知識すら皆無な私なのである。だから、「ブームが本当だ」とか「嘘」だとか言うような知識も資格もまた、私にはない。したがってここに掲げたタイトルも、単なる私の思いつきであってまるで根拠のない気まぐれである。

 ブームというのが、どの程度の評価になった場合にそう呼ばれるのか私は知らない。「私の知識にないものはすべてブームとは言わない」、などと不遜に考えているわけではない。またブームと呼ばれるためには世論調査やSNSなどでの一定の評価が必要だと考えているわけでもない。

 でもブームと名づけるには、少なくとも社会のおけるある程度の認知度が必要だとは思っている。でもその認知度が過半数まで必要なのか、それとも人口の一割程度で足りるのか、それとも投資額などの金銭的評価によるべきなのか、それもまるで分からない。

 つい先日のNHKテレビで、「埴輪ブーム」が現在起きていると放映された。シマエナガの場合もそうなのだが、ブームであることの客観的な根拠は少しも示されないままである。視聴者に向かって突然に「ブーム」なのだと一方的に宣言し、しかも番組の参加者も、そのことを盲目的に信じるのである。

 ことは「ブーム」である。どの程度の数値かはともかくとして、「範囲」と「人気の程度」くらいは視聴者に説明してもいいのではないだろうか。それは必ずしも世界的である必要はないし、日本全体を対象としたものでなくたって構わない。

 だから、「沖縄では○○がブームです」だって少しも構わないし、場合によっては「北海道の夕張市では石炭のオモチャがブームです」のような、地域限定のブームだって少しも構わない。なんなら、××小学校では今、△△がブームになってます」のような、小規模で限定的な人気だって構わないと思う。

 でも、ブームと呼ぶからには、少なくともその小学校やその地域で評価される客観的な人気のあることが必須になるのではないだろうか。それは必ずしも市民や在校生の過半数というようなものでなくてもいい。それでも、周りの人たちが見て納得できる割合と言うか承認が必要であるような気がする。

 ブームには、ある種の熱狂的な人気という意味がある。単に人気があるというだけでは足りず、まさに「熱狂的」である要素が必要なのではないだろうか。だからと言って、熱狂の程度とはどの程度かを私が知っているわけではない。

 でも、こんな風に言ったら間違いになるだろうか。「興味のない私でも、その人気はしっている」ことである。私の認識をブームの判断基準にすること自体間違いなことくらい知っている。こうした考えが決してスタンダードでないことくらい、誰に言われるまでもなくしっている。

 それでも、「興味のない人でも知っている」の基準は、もしかしたらとても大事な要素になるのではないだろうか。興味のある人がサッカーを知っていることは当たり前のことであり、それだけでブームとは言うまい。でもサッカーにまるで興味のない人がサッカーのルールに興味を感じたり、テレビ中継を観戦したりするようなことがあったとするなら、そしてそうした興味を持つ人が二人三人、十人と増えていく状況があったとしたなら、それをサッカーブームと呼んでもいいのではないだろうか。

 そのほかにも、この「ブーム」という言葉は余りにも安易に使われすぎているように思えてならない。喫茶店主が「最近売り出したチーズケーキがブームなんですよ」と宣伝してみたり、農家が今年のイチゴは気候の割には甘みが強くてブームになっているんですよ」などと、何でもかんでもブームに乗っけてしまうような言い方も気になっている。

 日本中、人気商品や人気漫画や人気○○に溢れているブーム話を聞くと、思わず「嘘言うな」と思ってしまう。人気がある、人気が出できた、人気上昇中くらいは我慢できるけれど、それが「ブーム」になっていると言うのは、少しやりすぎではないだろうか。

 そうした風調を一律に「嘘つくな」と否定しまうのは、やっぱりへそ曲がりの老爺のひがみなのかも知れない。そんな下らないことに一々目くじらをたてず、ゆったりと人生を楽しもう、みたいな思いも時にはすることもある。それでも持って生まれたへそ曲がりには、どうも勝てないようである。


                        2020.9.6        佐々木利夫


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ブームと言う名の嘘