恐らく著者の思惑はそんなところにはなかったのだろうが、私のへそは自分で思っている以上に曲がっていたのかもしれない。たかだか、新聞記事の見出しのこんな一行である。

 「文化人も困窮する一市民」(筆者 篠田ミル、バンドメンバー 2020.5.21、朝日新聞)

 こんなたった一行の短い見出しである。そんな見出しに、私はどこかカチンときたのである。それは、文化人と市民の言葉の持っているイメージの落差について、筆者が無神経だと思えたからである。

 書かれた内容を読んでいくと分かるのだが、筆者である彼は、自らを定義なしに文化人として位置づけていることがまず気になった。彼がどんな意味で文化人なる言葉をここで用いたのか、私はまるでしらない。また彼自身も、その意味を読者に説明しようとはしていない。だとするなら、「文化人」とは普通に理解できる意味の「文化人」なのだろうと私は思う。

 彼の職業は「バンドメンバー」とあるから、ライブハウスなどで演奏するバンドマンなのだろう。そして彼らの活動がコロナ騒ぎによって自粛に追い込まれ、経済的に苦しくなってきていることを訴えたいのだと思う。ならば、「バンドマンも一市民」とすべきではなかったのではないかと思うのだが、なぜか彼は自らを文化人に位置づけている。

 私には、なぜ筆者自身が自らを「文化人」と呼称したのかが分からなかったのである。彼の文章の中に、仮が理解しているらしい、「文化」に関するこんな記述がある。

 「文化活動も経済活動の一環です。文化は生活に身近なものなのに、額縁の中に飾られた遠くのものだと思われているように感じます

 彼は、無意識に自らの活動を「額縁の中に飾られた遠くのもの」として置き、それゆえに自らの活動を文化人の活動だとしているのである。それはまさに、「文化人」なる呼び方が特別なグループの呼称であることを、自認していることを意味している。

 このように、自らを特別なグループの所属者として捉える発想は、そのまま次の「一市民」とする思いに引き継がれている。彼は無意識のうちに国民を「市民」と「非市民」に分けている。市民とは名もなき力もなき一般国民を指し、非市民とは選ばれた市民を言っているような気がする。彼の発想には、「皆さんは私達を非市民だと思っているのでしょうが・・・」という前提が透けて見えるのである。

 彼は普段は「文化人」と呼ばれたり思われたりすることに、何の違和感も感じてはいないように思える。むしろ、文化人=エリートみたいな感触で、そうしたぬるま湯に彼はどっぷりと浸かっているのではないだろうか。むしろ、文化人であることの中に自身が安住しているような気さえする。

 だから、「文化人」は選ばれたグループであり、自らも多くの市民から「文化人」と見られることに麻痺しているのではないだろうか。彼の文化人としての活動が順風満帆だったかどうか、そこまでは分からない。バンドマンが常に成功するとは限らないだろうから、むしろ挫折の繰り返しの中に人生が埋もれることだって珍しくはないだろう。

 「売れない文化人」、それでもそれはそれで自己責任である。テレビに出る機会がなくたって、ライブハウスからのお呼びがかからなくたって、それは「売れない」、「人気がない」という意味ではまさに自己責任である。それを他人の責めにするわけにはいかない。

 そこに降って湧いたような新型コロナウィルス騒動である。ライブハウスもバンドも自粛を迫られ、活動の場が狭められるような事態になった。そしてある日を境に、一転して文化人は被害者へと転落する。そして、場合によってはなんとか給付金とかなんとか援助金などの支給が、受けられないような場面にまで追い込まれる。

 エリートの文化人から金のないバンドマンへの転落である。しかも一般市民には、様々な給付金や援助などがなされるらしい。そこで彼には急遽、「俺にも金をくれ」が本音として出てくることになる。

 だからと言って自らを「文化人」から格下げすることは自負心が許さない。そこで「文化人」の内容を定義することなく、「文化活動も経済活動の一環」であること、「文化は生活に身近なもの」であるとの抽象論を根拠に、文化人全体を「被害者」として位置づけることにした。

 エリートである文化人の位置をそのままで、同時に「被害者」であり「援助金の対象者である」ことにしたのである。いままでは「非市民」であることに何のこだわりもなかったのに、「被害者」で補償金がでることのために、突然「非市民」も「市民」である、だから「市民」と同様に援助の対象に含めるべきだとの思いにいたったのである。

 意のままに暮らせるときは「一般市民とは異なるエリート文化人」だけれど、困ったときは「エリート文化人」としての立場はそのままにして、「一市民として援助してほしい」と訴える、そんな風景が見えるのである。

 それはそれでいいじゃないかとある面で納得しつつ、それでも私のへそは、自らを文化人と位置づける筆者の考え方に、どこかカチンときてしまうのである。そして「お前は、文化人の意味を履き違えているんじゃないか」と、吐き捨てたく思ってしまうのである。


                        2020.5.29        佐々木利夫


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文化人と市民