投書者が実名なのか偽名なのか、それとも匿名希望なのか、紙面からではそこまで分からない。それでも私は、新聞投書で犯罪を自白するということに、どこか現代の無責任さを感じてしまった。

 最近のSNSであるとかユーチューブへの投稿動画などを見ていると、「この程度の軽い犯罪ならば、発表して人気取りを狙いたい」、そんな風潮がネット社会を中心に広まっているような気がする。これも一つの時代の傾向だとするなら、そう思う人の存在も一種の多様性として認めていいのかもしれない。

 「犯罪に軽いも重いもない」などと、紋切り型の教訓を唱えるつもりはない。罰金刑から死刑まで刑罰に軽重のあることは、そのまま犯罪にも軽重のあることを表しているように思えるからである。

 かつて職場の研修で学んだ刑法の授業で、大審院の判例に「一厘(りん)事件」というのがあったのを、微かに記憶している。確か、タバコの専売法違反の事件で、葉タバコの販売や消費・廃棄などが法律で細かく規制されているにもかかわらず、それに反して自分で勝手に消費してしまった事件だったと思う。

 「一厘」というのは当時の貨幣の単位で、1円の1000分の1を表したものだったと思う。当時と現代の貨幣価値を比較するデータを持っていないので、はっきりとしたことは言えないけれど、今の価格では1円〜数円程度になるのかもしれない。

 そんな程度の軽微な違反に、あえて刑罰を課すまでのことはないと大審院(現代の最高裁判所)が判断した事件である。犯罪の構成要件は満たしているから無罪とは言えないまでも、軽微な違反にあえて刑事罰を課す必要はないとの考え方(加罰的違法性)の授業だったと思う。

 このように一口に刑事罰といっても、場合によっては犯罪が立証されても処罰されないことがある。かつて私の職場で、脱税はどの程度に重さの犯罪(交通事故・窃盗・殺人などなど・・・)かと問われた時代があったことを思い出した。だから犯罪にも軽重があると考えるのは、一般人としてごく自然なことかもしれない。

 気になったのは、こんな投書である。

 「24時間営業見直し 食の安全にも」(2020.1.13、朝日新聞、声 埼玉県 66歳無職男性)

 「・・・小売店から外食チェーンまで『24時間365日』営業の見直しが進んでいることを歓迎したい。(なぜなら私は)30年間、食肉製造の現場で働き、24時間365日営業が食品の安全・衛生を脅かすと感じていたからだ。・・・コンビニが広がり、スーパーの営業時間も長くなると、欠品を恐れる店舗側の求めに応じて・・・洗浄や乾燥などが万全にできないまま製造したり、細菌検査の結果を待たずに出荷したりするようになった。『納品できなければ別業者に』と言われてしまうからだ。

 投書者はこの投書でも書いているように、「・・・食品製造現場では機械類の洗浄、床などの水分除去・乾燥、原材料から製造現場まで温度管理を徹底する。細菌などが国の基準に収まっているか確認するため出荷前には細菌検査もする。」ことを理解しているのである。そしてそれが義務であることも十分知っているのである。

 にもかかわらず、彼は「取引が断られるかもしれない」ことを理由に、この課されている義務を放棄するのである。取引が停止される恐れを理由に、義務違反を自らに納得させるのである。

 それとも彼は、この投書が犯罪の自白になっていることすら、気付いていないのだろうか。そして新聞社もそのことに麻痺したまま掲載したのだろうか。それともそれとも、これくらいの違反は製造業者として許される範囲内のことであり、それほど罪の意識を感じる必要はないとでも思っているのだろうか。そしてそうした風潮が社会的にも了解されているはずだと、本人も新聞社も考えているのだろうか。

 私はこうした食品製造における、検査システムをきちんと理解しているわけではない。だから、多少の違反であれば許されるとの裁量が、法的に示されているのかもしれない。法令違反の制裁は多様で、たとえば単なる注意処分から営業停止、更には罰金や懲役などまで何段階もの処分が存するのかもしれない。

 でも私には投書者のような行為に対して、食品検査の法令がそんないい加減な制裁で作られているとは思いたくないのである。少しくらいなら人が死んでもいいし、下痢や発熱程度なら口頭注意くらいでいいやなどとの基準で、法律が作られているとは思いたくないのである。

 もちろん細菌検査といったところで、死にいたるような症状を示す細菌から、なんとなくお腹の調子が悪い程度で済んでしまう細菌まで多様だろう。

 だからと言って、この投書者が告白したような行為が、法的に許されていいはずなどないと私は思う。投書者は、死にいたる細菌の検査はしたけれど、軽微な症状の細菌の検査はしないで出荷した、と自白しているのではない。

 投書者は小売店から取引停止されてしまうかもしれないとの恐れに負けて、食品衛生法に定めるような義務を履行しなかったと告白しているのである。そしてそうした自身の行為が、「許されない法令違反」に当たるとして反省しているようには、この投稿文からはどうしても読取れないのである。

 確かに24時間営業の見直しで生まれたゆとりを、食品検査を徹底する時間に充てるべきだとの提言はしている。だがそれは他者に対する、しかもこれからの行動についての提言でしかない。自らが行った過去の行為に対する反省は、依然棚上げされたままである。

 これまで自らの犯してきた違反行為については、「小売業者の脅迫に負けたから」だと言うだけで、何の反省もしていない。彼は、「食品検査をすると納入時期が遅延し、取引が停止されてしまう恐れがある」ことを正当な理由として主張するだけで、何の反省もしていないのである。

 食の安全は、我々の命の問題である。もちろん交通にしろ原発にしろ、災害対策や地球温暖化にしろ、私たちの命に関わるのは、何も食の問題だけに限るものではない。ただそうした違反を反省することなく、単に「その時は仕方がなかったんだ」みたいな一言で済ませてしまう思いそのものが、私には許してはいけないと思うのである。


                                 2020.1.16        佐々木利夫


                     トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
コンビニの食品検査