二ヶ月近く入院したこと、その中で三度にわたって大手術を受けたことについては、先週4本のエッセイでくどくど書いたばかりである。その手術たびに、どれほど多くの同意書と称する書類にサインを求められたことだろう。

 単に手術に対する同意書だけではない。手術に関連する事前の検査や麻酔や術後の輸血に関するものなどなど、様々な場面にそれは求められるのである。場合によっては、通常は必要ないけれど万が一の場合には必要になるかもしれない事柄にも求められる。例えば費用は数百円だけれど、健康保険適用外の治療薬を使用する可能性がある場合や特別な事情で輸血が必要になるかも知れない場合などである。

 でも多くの場合、同意は行われる手術に伴って発生する可能性のある重篤な後遺症、危険な副作用の承認に対するする場面で求められる。確かに同意書の内容は軽重様々だろう。でも多く場合、天秤の片方に乗っかっているのは患者の命である。仮に命でない場合であったとしても、多くは命に匹敵するような重篤な後遺症、副作用である。

 その選択を、「説明と同意」という一言で、患者は迫られるのである。しかもしかも、それは「強制ではなく同意である」という覆面を被せられて目の前に突きつけられる。その外見はまさに、「承認の形式をとった強制」なのである。拒否を許さない強制なのである。他の選択肢などまったく存在しない、「承認」を選ぶことしかできない強制なのである。

 同意書の意味が分からないというのではない。むしろ、分かり過ぎるほど分かっているつもりである。にもかかわらず、心のどこかで「分からない」と訴え続けている自分の存在を、どうしても否定できないのである。本当に同意書の内容に納得したのか、心から理解してサインしたのか、そんな声が聞こえてならないのである。

 例えば極めて単純化して、次のような例を考えてみよう。
 今あなたは、大変な手術を迎えようとしている。そして医者から次のような説明と提示がなされ、そして決断を求められている。

 「いま手術しないと、この疾病によるあなたの余命は残り数ヵ月である。だがこの手術を受けることで平均して5年の生存率を得ることができる。ただし、この手術には一定のリスクがあって、平均1000人に一人は手術中に死亡する。これらの事実を理解した上で、手術の承諾書にサインしてください」

 医者から提示される条件や数値、そしてリスクなどは様々だろうが、同意書は概ねこんなかたちで切り出される。さあどうする。医者の言葉に嘘はないとすると、その説明された内容は明確である。普通の知識で、十分に理解できる。

 あなたはこれだけのデータで、結論を下さなければならない。答は只一つ、サインするかしないかそれだけである。それ以外の選択肢はない。サインをしなければ医者は手術をしてくれない、ただそれだけのことである。医者はあなたの前で、不作為を背景に同意書と呼ばれる書類へのサインを待っている。

 あなたはきっと、医者が差し出したボールペンに手をのばし、少しも迷うことなく目の前にある書類に自分の名前を書くことだろう。医者かそれとも看護師か、相手はこともなげにその書類を持ち去り、その場からあっさりと消える。あなたと家族だけがその場に残され、何ごともない日常が当たり前に戻ってくる。ただそれだけのことである。

 きっとそうなることだろう。恐らく何一つ例外なく、そうした状況になるだろう。ハンコで押したような場面が、私には分かる。でもそれでいいのだろうか。あなたは、医者が提案した説明が本当に理解でき、そして納得してサインしたと考えてよいのだろうか。

 私にはどうしてもそう思えないのである。恐らく私もサインするだろう。その同意書を医師に渡すだろう。でもそれが「心からの納得」だとは、どうしても思えないのである。

 「手術しないと死ぬ」、それは医者の論理である。同意書には、それに並行して「手術しても死ぬ」が書かれているのである。この二つは両立しないのである。両立しないのに、あたかもジグソーパズルのピースのように、きっちりはまるように書いてあるのである。つまり、同意書は医師の論理だけで組み立てられているのである。

 それは「患者には迷いからの離脱」ができていないからなのではないかと思う。確かに「この手術を受けます」と承認しサインした。そのサインは反面、「万が一の場合は、この命が失われても構いません」との意思が含まれている。含まれているどころか、はっきりとそうした文言が書かれている。ならばそれは我が命の放棄を承認したのだろうか。「死を承認した同意」という契約が、どこまで効力を有するのか、そこのところが私の中で解決してくれないのである。

 「万が一」なのだから、それは限りなく小さな数値であり、無視できるほどにも小さい。つまりそれは「ゼロ」である。ゼロであることは、「死なない」のと同義である。そんな風に患者は理解しているのではないだろうか。万が一の意味は、千が一でも百が一でも同じような理解へとつながつているのではないだろうか。

 それは「ゼロ」だからこそ「迷いなく」、サインできたのではないだろうか。「ゼロ」だと思い込むことで、逆に同意書の実質を無視しているのではないだろうか。そんな「無視」を、果たして納得と呼んでいいのだろうか。むしろ決定的な間違いだと言ってもいいのではないだろうか。

 だったらどうすればいいのだ、との問いかけの声か聞こえてくる。代替案を示さないような意見は、そもそも意見としての価値がないのではないか、そんな声が聞こえてきそうである。そして、そうした声に沈黙でしか応えられない自分を不甲斐なく感じている。

 それでもなお、「医師の不作為と患者の死を並列した同意書は、真の意味での同意とは違うのではないか」と、囁く声が耳に残るのである。そしてそれは私自身の声なのである。


                               2020.4.22        佐々木利夫


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同意書の意味