複眼と直視とは、必ずしも対立したり矛盾する言葉ではない。そうは思うけれど、それをあからさまに並べて表示されてしまうと、どことなくすわり心地が悪いように思える。

 先月8月3日の朝日新聞朝刊の、しかも二つ並んだ社説のタイトルに、この二つの単語が並べられていた。片方は「氾濫への備え 『複眼』で幅広く検討を」と題する社説である。その下段にもう一つ別の社説が掲載されており、そのタイトルが「財政再建目標 現実を直視すべきだ」であった。

 同じ日に二本立てで社説が書かれていたところで、そのことに何の抵抗があるわけではない。ただ、同じような分量の社説が上下二段に並べられ、同じ大きさの活字のタイトル、文章も同じような段数で書かれているのを見たとき、なぜかこの「複眼」と「直視」の同列の並びが気になったのである。

 この二つの社説は、互に何の関連もない。上段の社説は熊本県で発生した豪雨災害を引き合いに出して、「特定の施策の是非にとどまらず、ハード・ソフト両面の対策を多様な視点から広く検討」せよとする意見で、複眼での対応を主張するものである。また、下段は、政府の発表した中長期財政試算について、コロナ禍の中にあって禍根を残すことのない我が国の財政再建を「直視せよ」、とするものである。

 だからそれぞれに独立した意見であり、それぞれにしっかりした見解を述べたものである。だからそこに何の矛盾があるわけではない。

 だとするなら私のこのエッセイは、何のことはない単なる言葉遊びであり、駄洒落の域を出ていないことになる。一方の社説が「複眼で多様な・・・」対策を求めているのに対し、もう一方が「そうではなくでまっしぐらに見ろ」とする直視を主張しているという、ただそれだけのことだからである。

 一つの考え方として、人は一方で多様を主張しておきながら、時に直視と言う多様性とはまるで正反対の主張をするという身勝手な生物だとの思いを抱いたこともある。だが、別々の場面でそれぞれにふさわしい考えを主張することは当たり前のことである。だから、あえてそこに矛盾を持ち込む必要はないだろう。

 ただ同じ日の、同じ新聞の同じ欄に、単眼と複眼みたいな対立するかのように見える社説が並んだのが、少し気になっただけのことにしか過ぎない。ただそれだけのことである。日常はいつものように繰り返され、恐らく明日も今日と違わぬ日常になることだろう。

 それを平和だとも、平穏だとも感ずることなどなく、当たり前が当たり前に過ぎ去っていく日常が目の前にあることすら感じることなくただ流れていく、そんな私がそこにいるだけなのかもしれない。それは逆に言うと、それだけ平和で平穏な日々を無感動に過ごしていることの証左なのかもしれない。


                        2020.9.9        佐々木利夫


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複眼と直視