「・・・べきだ」とか「それは正しい」などと思うのではなく、「普通の人の普通のこころ」みたいな思いが、この頃気になりだしている。それはもしかしたら、こうしたネットで発信するというような主義主張なのではなく、もっとエゴイスティックな非公開のひっそりとした思いなのかもしれないのだが・・・。

 難民は助けるべきだし、貧しい人たちに援助を与えることは、どんな場合も正義である。そんな正義は、私たちの生活のあらゆる場面に顔を出す。

 昔、一日一善という言葉があった。何が善かはともかくとして、他人に感謝されるようなことを一日一回でいいから実行しよう、そんな運動だったと思う。その感謝されるようなこととは、特別に賞賛されるような特異な行動である必要はなかった。

 自分が考える範囲での善意の行為であれば足りるのである。それは重い荷物を代わりに持ってやるとか、お金を寄付すると言うような目に見える善意でなくてもいいのである。落とし物を押しし主に教える行為でも拾ってやるのでも、場合によっては相手に微笑む程度の表情をすることでも足りたような気がする。

 でもそれは一日一善と標榜されているように、一種の目的化された数えることの出来る指針であった。「なんでもいいけど、それが善であることを自覚した上で、一日一回以上実行せよ」とする至上命令であった。

 なぜこんなことを思いついたかというと、私の中で、「善だと思うこと」と「それを実行すること」の間には大きな乖離が存在することに気付いてきたからである。

 誰から聞かれたって、戦争には反対だし、難民は救うべきだし、貧困者には援助すべきだと思っている。今は老爺の身として助けられる側だけれど、電車で困っている人がいれば席を譲りたいし、切符の買い方に迷っている人にも声をかけたいと思う。その外に、色んなことに対して、一日一善みたいな思いを抱くことはできるし実行したいとも思う。

 でも思うことと、それを実行することとは別なのである。気持ちだけが先行して体力がついていかないというのなら分かる。自分が歩けないでいるのに、他人の車椅子の介助などは覚束ないというのなら分かる。寝たきりの老人になったとして、ベッドであれこれ思いを巡らすだけで具体的な助ける行動ができないというのなら分かる。

 それは不可能を自分に強いることになるからである。できないことをできないと知ることは、気持ちの上では落ち込むことになるかも知れないけれど、できないのだから仕方がない。

 だが、私の場合は実体的には出来るのにしない、ということがほとんどなのである。1円にしろ、100円にしろ、なんなら1万円にしろ、私は寄付することくらいはできる。それは東北大震災の被害者に対してでも、シリアの難民対策の募金に対してでも、なんなら近くのホームレスに対する食事の補助でもいい。

 私は食費を多少削ってでも、様々な善と思われる行動に援助することは可能である。核兵器廃止条約に日本政府が批准するような運動に署名し参加することだってできる。中国の香港に対する措置に抗議する行動に賛意を示すことだってできる。

 考えてみると、「できること」なんて山のように存在する。それは必ずしも寄付のような金銭的負担を伴う行為だけに限定されるわけではない。署名運動や選挙での投票などなど、無報酬・無対価な行動だっていくらもある。

 でも私は行動しないのである。それは「できないからしない」のではない。「出来るのにしない」のである。気まぐれで東北の地酒を買って、これで大震災の被災地域なり被災企業に貢献したと自己満足にふけることはあっても、自らの利益を犠牲にするまでの援助は、ほとんどしないのである。シリア難民の処遇に怒りは覚えるけれど、そんなテレビを見ながら遠く我が家にあって私は、なんと缶ビールを空けることができるのである。

 毎日毎日、新型コロナウィルスに感染する者が増加し、それに伴って死者も増加している。そうした現実を横目に、こうしたエッセイではいくらでも同情の言葉を並べることはできる。政府は一体何をしているんだなどと、怒ることだってできる。だが実感的には、「私が感染しないように努力する」こと以外、ほとんど何の努力もしていないのである。

 感染しない、感染させないなどと口や言葉では言っているけれど、「感染させない」は実は嘘なのである。自分が感染したくないだけのことであり、そうすることが結果的に他者に感染させない行動になっていることを裏返しで表現しているだけのことにしか過ぎないのである。

 それを利己と呼び、批判すべき思いだと自らを責めるべきなのだろうか。私にはそんな気持ちがどこかで残りつつ、でも「普通の人の普通のこころ」は、決してありうべき善意や正義だけでできているのではないように思うのである。

 無関心とも違い、投げやりとも違う。ましてや拒否しているのでもない。責任を放棄したり、「私は関係ない」として責任を回避しているのでもない。それでも、「できるのにしない」ことが日常なのである。そしてそうした日常を悪だと感じることもないのである。私とは無関係な、別次元の出来事でもあるかのように、現実が目の前から消え、私の意識から遠のいてゆくのである。

 それを「普通のこころ」と言ってしまったら、やはりどこかで無責任さが伴うのだろうか。私の中には、そうした意味での無責任さがいつまでもついて回る。そして「できないのではなく、できるのにしない」が、いつの間にか私の中では当たり前になってしまっているのである。


                        2020.8.9        佐々木利夫


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普通のこころ