最近、「大雨 避難スイッチを」、「行政頼らず 住民たちで共有しよう」と題する新聞記事を読んだ(2020.8.10、朝日新聞 記者解説)。

 タイトルを見ただけで、記事の中味はほぼ見当がつく。豪雨災害からの避難は、他人に頼ることなく自力で考えようというのだろう。

 そのことが分からないではないし、むしろ必要だとも思う。「行政に頼らず」という発想が、言葉そのままに「自力」のみを指すのか、自力を少し超えて例えば町内会やボランティア団体などによる「地区・地域」からの支援なども含むのかはともかく、いわゆる「行政に任せる」ことの危うさや依存体質などからの脱却を目指そうとするものであろう。

 確かにそうだと思う。「なんでもかんでも他人(ひと)任せ」は余りにも無責任であり、時にそれは間違った選択になるのではないかと、私も常々思ってきた。ここにも、そんな意見を書いたこともある。

 それはつまり、「他人任せにばかりしていないで、たまには自分で考えたら・・・」との思いでもあった。それを自己責任と呼ぶか、はたまた自分のことは自分で考えろとの思いなのかはともかく、依存体質への偏りは、時に生き抜くことの放棄にもつながるように思えるからである。

 そうした思いは、基本的には正しいと思う。それは昔から、「自分のことは自分でしなさい」と言われ続けてきたし、同時に「他人(ひと)に迷惑をかけるな」とも教えられてきたからである。

 だから、そのことを否定しようとは少しも思わない。その通りだと、今でも心の中では思っている。それはそうなんだけれど、他人(ひと)に頼ることがとこまで否定されなければならないことか、と自問してみたとき、なんとなく他人任せを悪だとする思いに疑問を感じてしまうのである。

 それは私が高齢化してきて、自力での動作や判断が少しずつ鈍くなってきていることの反射的な思いからきているのかもしれない。だとするなら、これから言おうとしていることがどこまで正しいのかは疑問である。

 もちろん、自分にも他人にも、不可能を強いるつもりはない。どんなに正当な理論だって、不可能を強いるような意見は、それだけで意見として意味のないことだと思っているからである。だからと言って、「じゃあ、自分で出来るんだったら、できる範囲内でいいから自分でやったら・・・」との見解が、全ての場面で正しいかと言われると、それにもどこか引っかかるのである。

 私にはその、「できる範囲でいいから自分でやったら・・・」の部分に、どうにも抵抗感があるのである。「正しい意見だと思うのに、どこか納得できない」、そんな気持ちが残ってしまうのである。

 そう思うこと自体、どこか変だとは思う。「できるんだから、やればいいじゃないか」という声が、どこからか聞こえてくるからである。自分でやることがが自助であり、自力であり、自己責任であり、それが私たちに求められている義務なのだと言われているように感じるからである。

 かつて私はここに「御用聞きとしての行政」みたいなことを書いたことがある。いつ頃のことだったか、どんなタイトルをつけたのか、今となってはそのエッセイを見つけることができない。従ってリンクを貼ることもできないのが残念である。だがそこに書いた内容は、「自分でやる」とは真反対の、まさに「行政に依存する」ことを奨励することをテーマとするものであった。

 いや、それは少し違うかもしれない。むしろ、行政自らが「私に依存せよ、依存しなさい、依存していいんだよ」と、積極的に御用聞きのように、助けてもらいたい人を探し出す努力をしてはどうか、努力すべきではないかと書いたものだったからである。

 単に「申請を受付ける」と言う受身の立場から飛び出して、援助を必要とする者を行政自らが探し出すシステム、それこそが必要なのではないかと書いたのである。

 それは「ある利益を知らなかったこと」が、果たしてどこまで「知らなかった人」の責任なのかに対する疑問であり、同時に「知らない人」を作り出した行政にまったく責任はないのかを問うものであった。

 行政とは何か、はとても複雑だと思う。でも行政は、「我々を保護する」ことを目的とする、一番身近な組織体である。立法も司法も、ともに重要であることを否定はしないけれど、我々は「我が身を保護してくれる身近な存在、もしくは組織体」として行政を作り上げてきたのである。

 それはつまり行政は、私達を保護するためにのみ存在していることを意味する。それこそが目的であり、その意味に限って存在理由があるのである。もちろんその保護は、必ずしも直接的である必要はない。環境汚染や社会的な安定のためなどのように、間接的な保護である場合だってある。

 だが、そうした間接的な要請が求められているからと言って、直接的な要請をないがしろにしていいことにはならない。そんなことくらい、誰にでも分かる。右側通行を定めたり、犯罪防止のためにパトロールをを強化することで多数の市民の安全を図ることはもちろん必要だとは思う。だからと言って私個人の生活保護がないがしろにされていいはずなどないと思うからである。

 むしろ私たちは、個々人を直接擁護するものとして行政を作り上げてきたのではなかったのか。もちろん最初の目的は、集落や部落などの防衛にあったとは思う。それが少しずつ個々人の保護へと、目的が変わってきたのではないだろうか。

 それがいつの間にか、国を守るとか地方自治体を維持することの方へと行政の目的が乖離していったような気がする。守られる組織が大きくなればなるほど、目的が組織維持へと向かうのは、歴史の証明するところではある。だが小さい政府への要求は、「私を助けてくれ」に回帰することでもあるのではないだろうか。

 だとするなら御用聞きのように、積極的に仕掛ける行政へと変化することは、もしかしたら行政の本質に向かっていることなるのかもしれない。そんなことを願いつつ、頼りになる行政とはどこにあるのか、国民の願う行政とは何なのか、本当に頼らない行政が望ましい道筋なのか、冒頭に引用した記事に同調しつつ困惑している私がいる。


                        2020.9.12        佐々木利夫


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行政を頼る