「今どきの若者は」、「男というものは」、「女はいつも」、「老人は」・・・、人は得てして、ある集団を特定の特徴で一くくりして評価しがちである。その区分は、単に年齢や性別だけに限られるものではない。金持ちと貧乏人などの貧富の差である場合もあれば、「教師は」、「官僚は」、「銀行員は」、「サラリーマンは」などと言った職業による区分である場合もある。

 更には、「黒人は」、「中国人は」、「アメリカ人は」、などと言った人種を区分に使うこともあれば、「あの村は」、「あの人たちは」などと言った地域で区分したグループ分けもある。もちろんグループ分けの範囲や規模も様々で、時に「村八分」などと言って特定の家族のみを指すだけの場合もある。

 ではなぜ、人はこのように他者をグループ分けするのだろうか。一番単純なグループ゚分けの基本は、自己と他者である。つまり、自分と自分以外を分別することであろう。自我がどのように芽生え進化していくのか、必ずしも理解しているわけではないけれど、少なくとも自我の形成が「その人」、つまり個々人を作り上げていくことくらいは、事実として知ることができる。

 自己と他者、そうした区分は、恐らく命を背景に生まれるのかもしれない。「自分の命」と「他人の命」、この二つが決定的に異なること、そこに「自我」の発生と言うか萌芽があるのではないだろうか。それはつまり、「自己の命」がどんな場合も唯一であり、特殊であったことである。

 特殊とは、一義的には代替不可能であることを意味する。自分の命は、余人を持って代えがたいという事実を認識することである。臓器移植や人工心肺など、近代医学は自己の命が代替可能であることを示唆する方向へ向かおうとしているけれど、基本的には自分の命は自分だけのものとして、私たちは進化してきたのでないだろうか。

 「死んだら神様よ」は、一種のジョークとして私たちは信じてきた。でもそれは、死ぬと神様になるという意味ではなく、自分はいなくなる、自分以外のものになる、を所与としていたのではないだろうか。そんな理解のもとで、私たちは「生きている私」の人生を解釈してきたのではないだろうか。

 それは必然的に、「自分以外」を異質な存在として、自身から切り離すことを意味する。他者を区別することは、自己を再発見することでもある。自己と他者とは異なることの発見が、そこにある。

 そうしたとき、その他者は「無関係」か「利害関係」かのいずれかに区分される。「無関係」のケースはこの論議からは外してしまおう。なんたってそうしたグループは、私とは無関係だからである。隣町に住もうが、地球の裏側に住んでいようが、はたまた宇宙の彼方に存在していようが、少なくとも「私とは無関係」なのだから、「私にとっては存在しない」と同じことになる。

 もちろん、イランからギリシャへ避難している難民の食べたパンの影響が、巡りめぐって近所のスーパーの魚の切り身の価格に影響することだってあるかも知れない。世界はつながっているのだから、どんな事象だって私と無関係ではないかもしれない。

 でもそこは「相当因果関係」で割り切るしかないだろう。なぜなら、そこに因果関係を証明できないからである。さて相当因果関係があるとされた他者は、「利害の有無」のいずれかに分類されることになる。利益を与えるくれる他者なら、そのことを問題視することはない。素直に利益を享受することで足りるからである。

 その反対に、受ける利益の中にいささかでも私の害になる部分が入っていたり、もしくは害だけが与えられるような場合には、私はその「害」を排除しなければならない。それは「害」が「害」であることの必然だからである。害のない生活を求めること、害を排斥することこそが、「私が生きること」になるからである。

 「我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという戦国武将の話を聞いたことがある。だがそれは、「七難八苦」そのものを望んだのではなく、七難八苦に耐えられるような心を育成することが、将来の成功という七難八苦を超える果実を自らにもたらすという意味を示唆しているのではないだろうか。

 かくて人は「加害」に敏感になる。害を与える対象は常に他者、しかも特定の他者である。そうしたとき、個別の他者の個別の害を特定できるときはいい。その特定された害を避けることで足りるからである。

 でも「特定できない」ときに人は迷う。「特定できない=無罪もしくは利益を与えてくれる他者」とはならないからである。もちろん等号で結び付けられるような場合も存在するだろう。だが同時にその判断は、「疑わしい他者」、「限りなく疑わしい他者」の存在を産むことになる。

 そうした疑わしい他者にグルーピングされた他者が、このエッセイの冒頭に掲げた「一くくり」になるのである。そしてその一くくりの考えかたは、自分以外の他者に伝染する。しかも増殖するのである。なぜなら、「疑わしい」からである。「疑わしい」は証拠で示せる事実ではない。

 「疑わしい」は、その一くくりが示す限界、境界線がはっきりしていればその境界まで、はっきりしていなければその人が勝手に描く思惑の境界に到達するまで、どんどん増殖していく。

 それを単純に「自己防衛の本能」と呼ぶことは可能である。「人ってそんなものさ」と割り切ることだって可能である。恐らく人は、そうした一くくりの考え方の中で、何代にも渡って自らや自らの家族、更には身内集団、つまり「よそ者」に対峙する「うち者」を押し込め、守ってきたのだと思う。

 そしてそうした繰り返しの中で私たちは、生延びてきたのかもしれない。だから、そうした一面をとらえるなら、私たちは「一くくり」のおかげて生延びてきたともいえる。だが、そうした自らの生延びることの代償に、どれほど多くの犠牲を他者に押し付けてきたことだろうか。

 そんな許されざる一くくりを、私達はこれからも際限なく続けていくのだろうか。そしてそれを「人だから・・・」の一言であっさり片付けてしまっていいのだろうか。ここにも、「種としての人」の行き止まりを、私は感じてしまう。


                               2020.4.22        佐々木利夫


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一くくりの評価