何に関する話題だったか忘れてしまったが、テレビで「この問題は皆で考えていく必要がある」と話を締めくくっているニュース番組を見た。こうした形での話の持って行き方はそれほど珍しくはないし、聞いてる私もそうした語り口に特に違和感を覚えることもなかった。
でもしばらく経ってから、こうした話し方は意見としては無意味なのではないかと、疑問になってきたのである。この「皆で考えていく必要がある」という言葉は、「さぁ、これから皆で考えよう」と言う、単なる問題解決の入口を示しただけにしか過ぎないのではないかと思えたからである。
それにもかかわらず、この発言者はこの言葉があたかも結論であるかのように語っているのである。しかもこの言葉を口にする者がそうなのは当たり前だとしても、それを聞く側も同様の思いを抱いているように思えたのである。
言ってることは正しい。どこまでが「みんな」と言えるかは難しいところだが、多くの人が望ましいと考える方向を目指そうとする意見は、ある意味当然のことだと思う。
でも考えてもほしい。言っていることは、単なる「望ましい方向」を抽象的に示しただけでしかない。「そっちを向く」だけでは、ほとんど何の意味もないと思うのである。
「山のあなたの空遠く、『幸』住むと人のいふ。・・・」で始まるカール・ブッセ作「山のあなた」は、上田敏訳のあまりにも有名な詩(詩集、海潮音 所収)の一節だ。だが、山のあなたを見るだけで、幸せが実現することはないのである。空の向こうを眺めるだけで幸せを感じる人がいるかも知れないけれど、逆にそのことが現実の不幸を思い知らせる役目を果たすことだってあるかもしれない。
それを「ないものねだり」だと、切り捨てることはできるかもしれない。でも私には、そこで変わってしまう論調には、どこかついていけないものを感じてしまうのである。そこで終わってしまう中途半端さを、話している当人が自覚しているのならまだ分からないではない。
でもその多くはそこまでの自覚もなしに、将来の希望をそのまま結論にしてしまう話し方が、私にはどうしても理解できず、時に間違っているとすら思うのである。
こうした手法は、あちこちで見られる。時に言葉を変えて表れることもある。例えば「国民的合意」がそうである。論者は「そうするためには国民的合意が必要である」として、そこで議論を打ち切ってしまう。
しかも国民的合意をどんな形で求めるかについては、一切触れようとはしない。選挙によるのか、国民投票によるのか、はたまたこれ以外の世論調査や新聞投書の数、更にはデモやプラカードの掲示によって判断するのか、そんなことすら言おうとしない。
確かに「国民的合意」によって物事を決するのは正しい方向を示しているのかもしれない。ある方向が、国民的合意とは異なる方向だとするなら、その方向は国民の意思とは違うと断ずることにやぶさかではない。
でもそのためには、国民的合意をどう確かめたか、どう確かめるのかを示す必要があるのではないだろうか。それもまた、国民が望んでいることだと思うのである。
国民的合意が、誰もが確かめられる形で机上に並んでいるわけではない。「国民的合意が存在する」であろうことは分かるけれど、それは決して目に見える形で国民の前に誇示されているわけではない。
一番単純な国民的合意は、国民投票による選択であろう。テーマを決めてその進む方向を、国民に投票という形で選ばせる手法である。でもそれだって「国民的」と言えるかどうかは疑問である。国民とは何かの意味が問われるからである。
投票率が100パーセントで、単一の結果が100パーセント選択されたのなら、それを国民的合意というのに間違いはない。まさに国民の全員が同じ答を選択したことになるからである。
でもそんなことは現実的には考えにくいし、またそんな金太郎飴みたいな選挙結果となる国民の総意があったとしたなら、それもまた恐ろしいものがある。ならば国民的合意とは多数決なのかとの疑問が湧く。国民の過半数が選択した答えは、たとえ反対する人の意志を無視してでも「国民全員の意思」として擬制する、これを国民的合意というのだろうか。
このように考えていくと、「国民の意思」、「みんなの意思」とは、どのように集約していったらいいのだろうかが分からなくなってくる。過半数で決することを是としても、例えば投票率が低くて、投票者の過半数が国民の過半数に達しないときはどうなるのだろうか。
投票による賛成が90%だとしても、投票率が50%しかないなら、実質的な国民の賛成は45%にしかならない。それとも投票に参加しなかったことは、賛成に白紙委任したのだと擬制してしまえるのだろうか。
少し論点が逸れてきた。かように国民的合意とか皆の意見そのものの意味が曖昧であり、しかも「みんなの意見により決すべし」とする主張だけでが一人歩きして結論めいた行動にでることに、私はどこか危機感を覚えるのである。
ある集団の意思なり方向を決めるにあたり、その構成員の「皆で考えていく必要がある」ことに反対はしない。むしろ正しいことだとすら思っている。
でも話をそこで止めてしまい、どんな方法で「みんなの意見」を集約していくかの提言をしないのは意見にすらなっていなのではないだろうか。単に「考えていく必要がある」とする意見だけを垂れ流しにしてしまう論調は、無責任であり、言わせて貰えば間違った意見なのではないかと、ころごろ強く感じるようになってきている。
一口に「皆の意見」とか「国民的合意」とか言っても、とてつもなく難しい内容を抱えていることは理解できる。そのことだけで混乱してしまい、収拾のつかない状態に陥るかもしれない。でも、そうした考えを思いつき発言したのはその人なのだから、その締めくくりも自らがつけるしかないのではないだろうか
締めくくれないならそんな発言なんかするな、そんなことを言いたいのではない。ただ私は、発言する以上は解決に向かうための提言、仮に不十分であってもそこに至る道筋への提言を加えてこそ、本当の意味での見解になると思うのである。
「皆で考えていく必要がある」ことだけを、あたかも自らの信条であり結論でもあるかのような自信たっぷりに発言する識者らしき顔つきが、私にはたまらなく嫌味に見えるのである。
2020.10.23 佐々木利夫
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