命って言うのは、いつも厄介なものだと思う。個人としての「私の命」と私以外の他者の命、そして人類全体の命、それらの違いをどこに求めるかは、分かっているようで実はとても厄介だ。
更に言うなら、人類の命と人類以外の命、動物と植物の命の違いにまで思いを巡らすと、なお更分からなくなる。もっと言うならウィルスのような体を持たないような存在を生物と呼んでもいいのかなどにまで及ぶと、その混乱は更に広がっていく。
私たちは「命あるもの」を生物と呼ぶことで、その根源に「命の存在」を求めている。命あるものを生物と呼び、だからこそ生物に命があることは極めて当たり前のことだと、私たちは思っている。しかし、その「命」とは何かについて私たちは、何も分かっていないのではないだろうか。ウィルスにまで思いを巡らせないまでも、人間やイヌ・ネコやトンボに命のあることは誰もが知っている。
にもかかわらず、私たちは命そのものを目にすることはできない。命はあたかも存在ではないかのように、私たちの前に立ちはだかっている。生きていることが命だと言うことは可能であり簡単である。でも「生きている」とは何かについて、誰も答えてはくれない。
「命」はときに、「機能」であるかのような振る舞いを見せることがある。生物に触れることはできても、命を手のひらに載せることはできず、顕微鏡下に置くこともできないからである。
例えば赤血球を様々な装置で観察することはできる。酸素を取り込む機能や取り込んだ酸素を放出するメカニズムを調べることはできる。だが、赤血球それ自体を単独で生きているとは言わない。もちろん赤血球として機能しているのだから、「死んでいる」とは言えない。だからと言って死んでいないというだけで、生きていることにしてしまっていいのだろうか。生きていることを認めることで、そこに命が存在していることにしてしまっていいのだろうか。
そんなことすら私たちは分かっていない。つまり、生きていることと命があることとは別だと考えざるを得ない。更に言うなら、同じ意味で死ぬことと命がなくなることとも別なのである。赤血球のみならず、体中の無数とも言える細胞は毎日毎日、数え切れないほど死滅と再生を繰り返している。
だがそうした循環を、命の再生とは言わない。それは一つ一つの細胞を、命とは呼ばないからである。それじゃあ生きている細胞を命と呼ばないのなら、それは何なのか。単なる「機能」である。あらゆる細胞が、その用途と言うか使命というか、付託された目的にしたがって、死滅と再生を繰り返している。
私たちはそうした繰り返しの総合的な機能を「命」と呼んでいる。だからと言って、単なる繰り返しだけで生命が説明できるわけではない。トートロギーめくけれど、「生命を維持していくための繰り返し」が生命なのである。赤血球を100万個、一億個集めても、それだけで生命になるわけではない。
このように考えていくと、生命にはもっと別の、生命であるためのある種の統合された機能が必要となる。その統合された機能が、まだ私には理解できていないでいる。その始まりを「神の一撃」と呼ぶことは自由だけれど、仮にそう呼んだところで、何も解決することはない。
神の一撃と言う言葉自体が単なる抽象論であり、何の説明にもなっていないからである。命はこの世に無数に存在する。地上に溢れた無数の生命は、地球の歴史を考えるなら、そして絶滅した多くの種まで考えるなら、まさに無限と言ってもいいほど多数だろう。
それでも、考えようによっては、命はたった一つしかないようにも思える。生物は多様だとは言うけれど、多くの生物が頭と四肢から構成されている事実は、基本的には一つの生命体から進化したことを示しているのではないだろうか。四肢を持たない生物がいるかも知れないけれど、それとても進化の過程の一存在と考えることで説明がつくような気がする。
それにも増して、DNAの存在が生物の祖先が一つであることを示唆しているような気がしてならない。DNAが何者なのか、私にはまったく理解できていないし、DNA単独で生物と呼べるのかすら分かっていない。それでもあらゆる生物に、決まったパターンのDNAが存在し、それが子孫に引き継がれていくことだけははっきりしている。
だとするなら、生物の多様性とは単なる進化や分化の結果によるだけのものであり、もしかしたら神の一撃はまさに最初の一発だけで終わったのかもしれないのである。
この考えを進めていくと、「神の一撃」とは命の発生を証明できないことの単なる言い訳に過ぎないことになる。その一撃はまさに「偶然」であり、「偶発」てあり、もしかしたら「気まぐれ」と呼んでもいい現象だったのではないだろうか。
どんなに物質をこねくりまわしても、人類に生命を誕生させることはできない。それは、生命そのものが作り上げられるものではなく、「偶然によってのみできた再現不可能な事象」だったに過ぎないのではないのだろうか。
そしてそれは「神の一撃」とでも呼ぶしかないまでの偶然であり、数十億年に一度の再現不可能な偶然のなせる業だったのかもしれない。だから生命は地球上にだけあたかも奇跡のように現れた、宇宙に一つだけの偶然だったのではないだろうか。
2020.10.3 佐々木利夫
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