「智は、いつも、情に一ぱい食わされる。」、ラ・ロシュフコーの言葉だそうである(2019.12.30、朝日新聞、「折々のことば」より)。そしてその解説に、「人がなす推論や判断は、期待や恐怖、自愛や憎悪といった感情に知らぬ間にバイアスをかけられ、あらぬ方向に向かう。」とあった。

 夏目漱石も小説草枕の冒頭に「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される・・・」と書いているから、上の言葉の意味とは少し違うけれども、智と情とは互いに関連しつつどこかで対立しているものなのかもしれない。

 言ってることが分からないわけではない。それでも智を絶対視し、それにバイアスをかけるマイナス要因として情を捉えるような発想には、どこか納得できないものが残る。それは、こうしたバイアスこそが智や意志や思想などを彩る多様性の原点になっているのではないかと思うからである。

 「唯一絶対の哲理」みたいなものの存在を想定し、それこそが正義であり善であるとする考えは、それなり理解できないではない。でも、果たしてそんな存在を想定すること自体に、どこか無理があるのではないだろうか。

 思想、宗教、哲学、あらゆる学問、政治、経済、好悪や愛情などなど、世界は様々な要素、時には対立する要素を含めて構成されている。

 多様性などまるで考えられないと思われる数学の世界にだって、絶対は存在しない。例えば1+1=2は、どんな場面にも成立する絶対的真実だと言えるだろうか。時間は均等な速度で未来に向けて不可逆的に流れるとする考えは絶対なのだろうか。

 リーマン空間では正三角形の内角の和は180度を超える場合があるし、相対性原理は時間もまた伸縮することが証明されている。量子論の世界では、物質は波であると同時に粒子であり、1であり同時に0でもある状態が証明されている。つまり宇宙の成立そのものが「絶対性」から乖離しているということである。

 こう考えてくると、智の発するバイアスとは、智を否定したり減殺したりするマイナス要因ではなく、むしろ補強したり拡張したりする、一種の豊かさとして位置づけられていいのではないだろうか。

 それはつまり、バイアスこそが「人間性」と呼ばれる人間らしさの源流になっているのではないかと言うことである。そのバイアスは、時に個性と呼ばれ、時に多様性と呼ばれるなど、人間の豊かさを作り上げる大切な要素になっているように思える。

 他者の意見にバイアスがなく、どんな事柄にも画一的な方向しかない人間集団を考えるのは、まさに人間であることを否定しているような気さえする。

 そうした時、そのバイアスは一定方向だけに向かう力だけを意味するものではないだろう。ラ・ロシュフコーの言うように、「一杯食わされる」方向への力もまた、バイアスとして承認しなければならない力だろうと私は思う。

 だからこそ私たちはそうした様々なバイアスを多様性と呼び、それをすべて承認しようとしているのではないだろうか。それを個性などと呼んで、あたかも絶対的な善であるかのように信奉しようなどとは思わない。私には、「画一的な方向」という考えそのものが、間違いであるかのように思えるのである。

 こんな風にバイアスを考えてくると、人の個性であるとか意志などというものは、一種の「思い込み」に過ぎないようにも思えてくる。人はそれぞれ、「異なった思い込み」から形成されているのではないだろうか。

 人は生まれながら個性を持っているわけではない。自立した人間はそれぞれが自己決定権を持ち、自分で判断して行動していると思いがちである。自分のことは自分で決める、私たちはそう教えられ、そうすることが一人前の大人になることだと信じてきた。

 でも、それもまた一つの思い込みではないだろうか。例えば私自身を考えても見よう。私は独立した大人として、自らを律することを当たり前のこととして生きてきたように思う。たとえへそ曲がりにしろ、私の哲学は私自身に固有な哲学だと思い込んでいた。

 でもそれも一つの「思い込み」に過ぎないのではないだろうか。受けた教育や両親、友人や職場からの様々な影響、メディアや読書などからの意見や傾向、そうした他からの雑多な物の見方から、私は作り上げられているのではないだろうか。

 私はそれを「個性」と呼び、あたかも私自身が自律して判断しているかのように思っている。でも私が日本語を話し、日本語で物事を判断しているのは、私が日本に生まれ、日本語を話す環境に育ったからである。つまり、私自身は自律して私になったのではなく、環境から作られた、言い換えると様々なバイアスが私という要素を作り上げてきたのではないかということである。

 「純粋な私自身」という発想そのものが、私には間違いのように思える。恐らく世界中の人々が、純粋の個性を持っていると言うのは間違いなのではないだろうか。親兄弟や、社会や政治やメデイァに影響され、その結果として形成された「思い込み」の中に、人は一人の個人として存在しているのではないだろうか。

 だから人は「一人一人が思い込みの中に生きている」のだから、互いに対立し妥協し協調していくしか生きる術はないのである。まさにバイアスによる多様性が人を作り上げているのである。そしてそれは常に「思い込み」の激突する場なのであり、そこは偏見と偏見のぶつかり合いにならざるを得ない場なのである。

 それが人間なのである。だからこその人間なのである。


                                     2020.1.6        佐々木利夫


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意志とバイアス