コロナ騒ぎの中、がん患者が感染のリスクを考えて病院へ行くか行くまいか迷っていると言う。そんな患者に、「過剰に怖がる必要はない」とがん専門医は言う。

 彼は「・・・過剰に怖がる必要はない。がん治療中の患者が皆、重症化しやすいというわけではない」と述べ、WHOや英医学誌などのデータを引用した上で、「治療や診療を自己判断で控えたりせず、心配なことがあったら主治医に相談してほしい」と結ぶ(2020.12.18、朝日新聞、患者を生きる、日本医大武蔵小杉病院 勝俣範之教授)。

 言ってることに何の問題もない。でも、結局彼は何にも言ってないことに、彼自身も新聞も少しも気付いていないように私は感じる。それはつまり、何が「過剰」かについて、まるで説明していないからである。ある薬品がある人にとって、ある分量ならば薬として効果があるが、ある分量では毒になるだろうことは理解できる。また、一定量以下ならぱ毒にも薬にもならないということだってあるだろう。

 それが科学としての成果なのか、はたまた経験による結果なのかはともあれ、そこに「ある分量」という基準が示されている。それがどこまで正しい分量なのかは置くとして、そこにある種の効果を測定する基準が示されている。

 どこまでその基準に従うかどうかはともかくとして、そこからは「過剰である、ない」の判断ができるということである。「過剰」とは、ある基準を超えることである。基準を示すことなしに、そもそも過剰かどうかの判断がどうしてできるだろうか。

 そんな当たり前のことを、この大学教授はあっさりと言いぬけ、しかもその記事を新聞が検証なしにそのまま掲載しているのである。発言者が「過剰に怖がる必要はない」と述べたとしたのなら、新聞社としては過剰であることの基準を問い直すのが、当然の責務だと思うのである。

 検証しなかった原因がとこにあるのか、紙面からは分らない。単に話したことをそのまま記事にしたという、新聞社としての責務を放棄しただけなのかもしれないし、大学教授という権威にひるんで確かめることなど恐れ多いと思ったのかもしれない。

 いずれにしても、「過剰」の基準について一言も触れないまま記事にしてしまったのは、元々はそうした発言をした教授に原因があるとは思うけれど、記事にするに際して確かめることをしなかった記者、もしくは編集者の責任でもある。しかもこの記事は、「過剰に怖がらず相談を」と見出しとして大きな活字で示しているのである。

 上に書いた記事の引用文をもう一度読んで見て欲しい。ここから読取れることは一つしかない。過剰に怖がることの基準を示さないまま、「自己判断で診察を控えたりせず主治医に相談せよ」と言っているだけなのである。

 そのことが間違いだと言うのではない。医師に相談することは専門家に判断を委ねることであり、それはそれで十分理に叶っている。なんたって相談の相手が主治医であり、病気の専門家なのだから・・・。

 だったら、過剰に怖がるとはどういう状態を言うのだろうか。どんな怖がり方だったら、その怖がり方が「過剰」だと言えるのだろうか。

 新聞の見出しを見る限り、通常の心配はしていいけれど、程度を超えた心配は「過剰」だから、その場合は主治医に相談して欲しい、と読める。日本語として、また文章として変だと言っているのではない。

 この記事は、がん患者が病院を受診することで、コロナウィルスに感染するかどうかを悩んでいることに対するものである。そんな患者にWHOでの統計だとか医学雑誌に掲載された論文の内容を引用したところで、果たしてどんな効果があるというのだろうか。

 患者は感染が心配なのである。とうしたらいいか、迷っているのである。その迷いが過剰なのかどうか、それを基準も示さずに患者自身に判断せよと医者は言うのだろうか。それが正しい指導なり助言だと、本当に思っているのだろうか。

 私にはこの記事が、「自己判断せず、主治医に相談しなさい」とだけしか言っていないように思えてならないのである。「過剰な心配」の基準はどこかへ吹っ飛んでしまい、結局「自己判断をしないで、医者に相談することだけ考えなさい」とだけを言ってるようにしか見えないのである。

 そして次なる課題は、主治医の相談態勢である。「主治医に相談しなさい」は言葉としては良く分る。だがそうしたとき、主治医はどこまで相談に乗ってくれるだろうか。私が経験している限り、医師は外来患者の診療で、診察室に缶詰状態である。待合室には、何人もの患者が待っている。

 「一時間待ち、三分診療」なのか「二時間待ち、二分診療」なのか分らないけれど、病院の待合室は患者で溢れている。とてもじゃないが、電話で「私の心配」を医師に訴えることなど不可能である。

 こうした医師の忙しさが医療経営の問題からきているのか、それとも健康保険制度というシステムによるものなのか、もっとほかに原因があるのか私にキチンと理解できているわけではない。

 それでもかつての医療は、「往診」が基本にあったような気がしている。だが今は、「往診は例外」になっているような気がする。電話をかけてすぐに医者が自宅に来てくれることはまずない。だから救急車があるのだと言われればそれまでだが、医者は病院と言う建物の診察室で機械とパソコンに囲まれて鎮座している存在なのである。

 ニュースではオンライン診療などがあるけれど、「コロナを怖がるがん患者」にすぐさま応用できるとは考えにくい。ましてや、主治医が私のパソコンに向き合ってくれるとは到底思えない。

 主治医に電話するとしよう。主治医がその電話にでることはない。受付かどうかはともかく、まずは看護師との応対になるだろう。心配事を伝えて主治医と話したいと伝えても、答えは決まっている。恐らく「先生は診察中です」として断られるだろう。

 そして次に看護師の言い分は、ハンで押したように分る。「病院へ来い」である。そして受付で自分の順番を待ってから、ようやく医師との面談が始まるのである。だとするなら、端から「心配だったら病院へ行くように」のメッセージだけでよかったのではないだろうか。

 この記事に、「過剰に怖がらないで・・・」という枕詞をつけたのが混乱のもとなのである。しかもこの「過剰に怖がる」という言葉には、いかにも専門家の放ちそうな尤もらしい響きが含まれている。もしかしたら、何らかの学術的な響きさえ有している。

 実態的に何の意味も持っていないのに、いかにも「専門家による専門的な助言です」みたいな響きが、この語には含まれている。そしてその言葉を放った専門家は、単に「心配なら病院へ行け」との通俗的な助言でなく、専門家らしく専門用語で助言したとの自負を抱くことができるのである。この記事には、そんな臭いがプンプンしており、それが私にはたまらなく臭うのである。



                        2020.12.22       佐々木利夫



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過剰に怖がる