ここに発表するエッセイ(雑文)のきっかけの多くは、メディアからの情報である。それは私の生活そのものが夫婦二人だけで構成されており、外部の人たちと交流する機会はせいぜいが散歩と買い物くらいしかないことに由来する。だから他者と会話らしい会話を交わす機会など、さほど多くはない。

 しかも「メディア」などと知ったかぶりの単語を並べたところで、その内容たるやほとんどがテレビと新聞であり、それにインターネットが多少加わるくらいである。そんな生活の中で、最近特別な言葉遣いが気になってきている。昔からそうだったのかもしれず、たまたまこの頃になって私が気づいただけに過ぎないのか、その辺は良く分らないのだが、こんな使い方である。

 それは「仮定」として話題が提供されているにもかかわらず、いつの間にかその仮定が話し手の中で事実として確定されてしまっている、そんな話法と言うか論理の組み立てである。

 仮定は飽くまでも仮定である。とは言っても、「仮定だから誤りだ」と言いたいのではない。仮定であっても「もしかしたら事実かもしれないケース」は必ず存在するからてである。だから仮定もまた成立させていいのだと思う。正しい結論とは、そうした「仮定としての不確実さ」を許容した上で成立する会話なり議論から成り立っていると私は理解している。

 仮定の許容はむしろ、正論に届くために必須な過程だとすら考えていいのかもしれない。科学でも良く言われるように、仮説をたてそれを検証することが正解に届くための手ががりになるのであり、正論へ到達するために必須な途だと言われることと共通するように思えるからである。

 ところがこの頃は、仮定を結論にしてしまう風潮が余りも氾濫しているような気がしてならない。それは、仮定を話題にしているテーマそのものが偏っているからなのかもしれない。また、私自身の目線がそうした偏った方向へ向いているからなのかもしれない。

 それにしても、「AがBなのは、○○が原因かもしれません」であるとか、「CがDに見えるのは、××のせいなのかもしれません」とする話法が、あちこちで使われているような気がする。そしてそうした言い方に続けて、「だとするなら・・・」とする接続詞が付加され、更に話者独自の見解がそれに続くのである。そしてその後、AがBであるかどうかの検証などは、全くと言っていいほど忘れ去られてしまう。

 この新聞に掲載された寄稿文もそうであった。

 「ウィルスに揺さぶられて」(上橋 菜穂子 作家・文化人類学者、2020.7.24 朝日新聞)

 「ウィルスは不思議な存在です。・・・私たちはウィルスが存在しなけれは、この世に生まれてくることすら出来ないのかもしれません。なんと、胎盤形成にウィルスが関与しているそうですから。・・・だとすれば、私たちはウィルスのお陰で生まれてきたわけです。」と書き出し、「・・・ウィルスが、今、私たちを揺さぶっています。私たちは変わることができるでしょうか」と結ぶ。

 既に彼女の中には「ウィルスが存在しなければ人類は生まれてこなかった」ことが、無検証のまま所与の事実として断定され固定されてしまっている。

 寄稿文なのだし学術論文とは異なる位置にあるのだろう。そうは思いながらも、作家・文化人類学者としての肩書きを許容している本人が、検証なしの自説を仮定のまま論じてもいいのだろうかとの疑問が湧く。

 タイトルにある「ウィルスに揺さぶられて」は分かる。世界中がコロナウィルに揺さぶられているからである。それは単に病気であることを超えて、経済危機・社会不安を招くまでになっている。

 それは検証不要の事実である。今や世界の感染者数は1800万人を超え、死者数もねたまた70万人に届こうとしている(2020.8.5、WHO)。だからと言って、そのことがウィルスなしに人類の発祥はなかったことの根拠になるわけではない。

 ウィルスが人類発祥にどこまで関わっているのか、それが学説としてどこまで容認されているのか、ウィルスだけが人類発祥に関わっていたのか、そもそも生物の誕生にウィルスは不可欠だったのか、胎盤形成だけが人類発祥の原因なのか、それとウィルスの関係は・・・、私にはほとんど知識がない。

 私は垂れ流しの理論を、何の検証もなく続けられることにどこか違和感を覚えたのである。しかも、彼女の論理は「今はダメだけど、人類の未来の英知に期待する」みたいな抽象論だけで構成されていることにも、どこか腹立たしさを感じてしまったのである。

 こうした仮定を前提とした文章構成は、例えばテレビコマーシャルで「目が痒いのは・・・」、「朝起きられないのは・・・」。「夜中にトイレに起きるのは・・・」、「足や腰が痛いのは・・・」、「疲れやすいのは・・・」などなど、際限なく提起される例と同じである。そしてそうした前提に続く「・・・それはもしかしたら○○のせいかもしれません。だとするなら、××を飲んでください」とする例とまるで同じ作り方なのではないかと思ったのである。

 「仮定と検証」と言うべきか、それとも「仮説と検証」、「仮説と証拠」などと言いかえるべきか分からないけれど、仮定がそのまま事実として断定されてしまうような現代の風潮に、私はどこか苛立っている。


                        2020.8.5       佐々木利夫


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仮定と断定