新型コロナウィルスによる影響もあるのだろうが、毎日きちんと食事のとれない家族に、弁当であるとか作りたての食事を格安または無料で提供する、そんな場面をテレビなどで見るようになつてきた。母子家庭のみでなく親子揃っている家庭でも、忙しさやお金がないなどの理由で、そうした援助を待ち望んでいる家庭もある。

 またそうした家族に、賞味期限の迫った食材を、メーカーやスーパーなどの協力を得て無償で供与するという光景を見たこともある。これは無償提供という意味よりは、むしろ廃棄する食材の有効活作用、つまりフードロスを少なくするという意味の方が強調されるようだが・・・。

 そんな風潮に特に異議はない。むしろ望ましいことだとさえ思っている。思っているんだか、その一方で、どこかで私へそが曲がるのである。サービスを受ける側に対してではなく、サービスする側、つまり善意を提供する側にどことない違和感を覚えるのである。

 ここまでくると、そうした違和感は一番的な常識の範囲を超えた、私の身勝手なへそ曲がりになってしまうのかも知れないと、ふと思うときがある。提供する側が善意100%で、受ける側が感謝100%なのだとしたら、それだけで満足すべき現象であり、そこに違和感など微塵もないではないかと思わないでもないからである。

 そんなところに違和感を持ち込むのは、まさに「重箱の隅を突っつく」ことであり、屁理屈の最たるものではないかとの感じがしないでもない。

 全くその通りだと理解しつつ、それでもなお私は、そうした非のうちどころのないような行為の中に、違和感を見てしまうのである。それは、まさにタイトルに掲げた「困ってる人よ、取りに来い」とするシステムになっているからである。

 100%善意の、申し分のない行為だと認めつつ、その善意の享受を躊躇したり、また善意の存在を知らなかったり、更には知っていても物理的にその善意に到達できない人たちの存在が、結果として無視されてしまうことになるからである。

 それは決して、サービスの提供者の責任ではない。提供者は、ひたすらに鍋を動かしフライパンを揺らしながら食事を作っている。そこのところに、善意の陰りなど少しもない。

 こんなことを言うと、そこまで届かせるのは事実上難しい、無理だ、不可能だ、そんな声が聞こえるような気がする。でもその声の背景には、「そんなところまでする必要はない」とするような思いがあるからではないと思うのである。「不可能だ」としつつ、「言ってることは分かるけど」とか、「そうしたいのはやまやまなんだけど」の思いが、そこには潜在しているのではないだろうか。

 そこのところにこそ私の違和感の根っこがあるのである。誰しも思いつつ、「不可能だ」と自分を説得してしまう現実、そこが違和感の萌芽になっているのである。「不可能だと思う」、そこで止まってしまうのではなく、もう一歩、もう二歩進める努力、それが必要だと思ってしまうのである。

 そしてそこで行動が止まってしまうのは、行動する側の奢りなのではないかとすら思うのである。善意を善意の範囲内に止めてしまう自己保身、そんなとこに躊躇の原点があるのではないかと思うのである。

 ここまで考えてしまうと、私の違和感は違和感の範囲を少し超えてしまうのではないかと思う。善意だけで形作られているかにみえるフライパンの一振りの中に、目に見えないかもしれない「悪意」を密かに仕込んでいるように感じるのである。

 それはもしかしたら無理強いした悪意である。感じなくてもいいところに、顕微鏡で探し出すようなあらを捜す言いがかりである。善意は善意のままでいいではないかと思わないではない。それで世の中、うまく動いているのだから、波風を立てる必要はないと思わないではない。

 でも「善意の届かない人が存在している事実」、それを許容するようなシステムは、どこか欠陥があるように思えてならない。そうした人を探し出してでも善意を届ける、そんなシステムが構築されない以上、それは欠けた善意であるように思えてならないのである。どこか欠陥を抱えたまま、便利さ快適さだけが先走っているように思えてならないのである。

 そうした行為に、悪意が含まれていると心底思っているわけではない。そうした善意が不遜だと言いたいのでもない。それでもそこに僅かにしろ悪意や不遜があると言いたくなるくらいにまで、違和感が膨らんできてしまうのである。善意の中に傲慢の片鱗でもいいから見つけたいと願うような心境にまでなろうとしているのである。


                      2020.4.29        佐々木利夫


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困ってる人よ、取りに来い