タイトルに掲げた言葉は、新聞に掲載された記事からの引用である。記事のタイトルは、「番組か広告か 視聴者惑わせぬ放送を」であり、記事は「番組なのか広告なのか、はっきりしないーーー。放送倫理・番組向上機構(BPO)が地方の民放テレビ局に対し、放送倫理に違反する行為があったと判断する例が相次いでいる」と書き始める(2020.7.29 朝日新聞)。

 テレビ番組の中には、例えばドラマやニュースと言った本番の番組と電気製品のコマーシャルなどが明確に区分されているものが多い。つまり、表示された放送の意図が明らかに別異なものとして認識できるもので、それが普通の番組である。ただ一方で、通販番組のように、番組そのものが商品の解説とその利便性や更には宣伝などが混在し、放送の意図が区別できないような番組もある。

 また衛星放送の多チャンネルを見ていると、コマーシャル専門に特化したようにも思える番組がないわけではない。現代はコマーシャルと本来の放送とが混同して区別できない世界が広がってきているのかもしれない。

 現在でもそうした番組があるのかどうか分からないのだが、かつて時報だけを映し出すテレビ番組があったと聞いたことがある。つまり時計だけを24時間連続して映し出すだけの番組である。

 分秒までの正確性はともかく、100円ショップで腕時計から目覚まし時計まで買える時代だから、そうした時報まがいの番組など必要ないのかもしれない。

 ただ私は、この「惑わせぬ報道」という言葉を見たときに、このBPOの意図とは別に、言葉そのものに拒否的な感触を抱いてしまった。「惑わせぬ」という表現に、かつて「報道」を「報導」と書いたメディアの奢りみたいな意図を感じてしまったからである。

 BPOの勧告というか判断が、どんなものだったのか私はしらない。しらないでいながらそれに反論すのは間違いだとも思っている。

 それでも、この記事も自認しているように、言論とは「民放連の留意事項が例示にとどまったことが示すように、番組か広告かを峻別できる物差しはない。見る人や社会状況によっても評価は微妙に違う」のである。

 だからこそそのことと、「新聞やネットも他人事ではない。受け手に疑念を抱かれないようにする。このことを常に念頭に、発信する内容や表示の仕方をチェックする必要がある」こととの間には、一定の距離が必要なのではないだろうかと思ったのである。チエックする側が、「その正否を常に念頭に置く」ような状況は、どこか情報統制や検閲につながるように思えたからである。

 それは力ある者による情報への介入は、どんな場合も正義の衣を着ているからである。そしてそうした現実が、今では中国で香港で台湾でソ連で、もしかしたらアメリカを含む世界のあちこちで密かに広まっているように感じるのである。

 「悪しき考えを糺す」ことは、どんなときも正しいことだとされてきた。社会の安定や経済の発展は、恐らく法治国家の成熟と同義のような気がする。そしてそれはそのまま、「各人の好き勝手な主張は社会の混乱の元になる」ことの反語になるのかもしれない。

 そわさりながらこの頃の私は、「好き勝手」な主張は本当に社会の混乱を招くことになるのだろうかと思うようになってきたのである。曲がり真っ直ぐという方法もまた、人の歩む一つの道筋として許容してもいいのではないか、好き勝手も一つの選択肢として承認させてもいいのではないか、そんなことを思うようになってきているのである。

 混乱をコントロールするシステムが必要だとする思いが分からないではない。混乱と無秩序は破滅の将来へと進むだけだとする考えも分からないではない。でも混沌の中から私たちは、自らの進むべき道を見つけてきたのではないだろうか。そしてそして、その方法が誤りだったとは、誰にも言えないのではないだろうか。


                        2020.8.8        佐々木利夫


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