世界中がマスク一色である。ヨーロッパやアメリカにマスクをする習慣はないと聞いていたし、WHO(世界保健機関)でも、マスクの効果は否定的だ聞いていたから、私もそれほどマスクの必然性を信じているわけではなかった。

 それが今では、世界中の人々が挙げてマスクに走っている。実態的にみて、マスクにどれほどの効果が期待できるのかは疑問である。マスクは口と鼻を覆うものである。口と鼻ということは、呼吸をコントロールする装置というか道具である。

 それはつまり、呼吸器官に侵入するゴミやホコリ、さらには病原菌やウィルスなどの異物を阻止することにある。口と鼻を覆うのであるから、その効果を期待できるかどうかは、マスクの材質と構造に委ねられることになる。つまり、マスクの材料が異物をどこまで除去できるかであり、もう一つはマスクの構造が呼吸を完全にコントロールできているかである。

 私には、この二点ともがマスクには欠けているように思えてならない。つまりマスクに異物除去をする効果がそれほどあるとは思えないのである。

 第一に、マスクを構成している材料に、どこまでウィルス除去の効果かあるかである。もちろんマスクにホコリやウィメスを除去するフィルター効果がないとは言えない。でも、それは特殊なフィルター効果のある材質でマスクが作られていて、それで始めて「効果あり」といえるのではないだろうか。

 もちろんそうした完璧なマスクが存在しているであろうことを否定するつもりはない。否定はしないけれど、そうしたマスクの存在は、極めて限定的なのではないだろうか。ウィルスとは、かつて私が学んだときには、「ろ過性病原菌」と呼ばれていた。細菌よりも小さく、電子顕微鏡でしかみえないほどの大きさで、素焼きの陶磁器の目を素通りするほど微小であると言われていた。

 素焼きの陶磁器を通り抜けるような、そんな病原菌を濾し取れるようなマスクが存在しないとは言えない。でもそうした材料がきちんと使われているマスクなのかどうか、その検証もなされずに欠巻品と呼ばれたり「手作り」と称したマスクが街中に溢れている。

 コロナウィルスのサイズを私は知らない。しかし、新型コロナウィルス対策と銘打ったマスクならば、少なくともその規格と認証を公表した上で国民に販売すべきではないだろうか。だが、私の見聞きする限り、市販もしくは市中で配布されているマスクが、そうした規格をクリアしているとは思えないのである。むしろ、クリアいていない製品が出回っているのである。

 もう一つの疑問はマスクの構造である。そのマスクは、その人の呼気、吸気の全てをコントロールするものでなければならない。何故なら、吸う空気がそのマスクを完全に通過するような構造が必須である。マスクの周辺のスキマなどから外気が入り込んでくるようでは、呼気の中にウイルスの侵入を許してしまうからである。

 それはたとえて言うなら宇宙服と言うかヘルメットのような機密性が要求されることを意味する。呼気の全てがマスク以外からは入り込まない構造でなければならない。そんな機密性が高くウィルスの透過を許さないようなマスクが、果たして存在するのかと問われるなら、私は不可能だと答えたい。そんなマスクからでは、きちんと呼吸できないように思えるからである。

 私の知る限り、マスクをしている人のことごとくが、鼻の脇のスキマを自分に許してている。吸気の多くがマスクを通過することなく、鼻の脇の隙間から口や鼻の中へとへと入り込んできているのである。つまり、全ての人の吸気の何割かが、マスクを通過することなく体内に入り込んでいるのである。

 タイトルから離れてしまったが、私がこうした矛盾に気付いたのは、あるテレビ番組を見たときである。高校生らしい吹奏楽団が同じく学生達の前で演奏していた。吹奏楽の演奏である。必然的に呼吸で楽器を鳴らすしかない。それはつまりマスクをしている楽団員は一人もいないことを意味する。

 それに対し、その演奏を聞いている学生の全部がマスクスタイルだったのである。マスク姿の一人もいない演奏集団、そしてそれを聞いている全員マスクの学生集団、その対比が余りにもはっきりとしていたのが、どこか滑稽だった。滑稽を超えてマスクの意味を、どこかで嘲笑しているかのように私には思えたのである。マスクとは何なのか、と思った瞬間であった。


                        2020.5.5        佐々木利夫


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マスクと楽団