分っていながら真意を伝えるのに躊躇する気持ちの残るのが、日本人としての奥ゆかしさとか控え目とか言うのだろうか。仮にそうだとしても、余りにも本音の透けて見える控え目と言うのは、逆に隠している気持ちを増幅させているような気がしてならない。

 例えば「儲けたい」とか「売り上げを増やしたい」と言うのは、私たちは恥ずかしいことだと思っているのだろうか。別の表現でこうした本音を糊塗しなければならないと思うほど隠したい、もしくはタブーとして言ってはならないことだと思い込んでいるのだろうか。

 コロナ騒ぎであらゆる業界が悲鳴を上げている。動くな、喋るな、人と会うな、が私たちの行日常を規制するようになり、人も物も金もその動きを止めている。このままでは、コロナで死ぬか、経済破綻で死ぬかだと言われるまでの、この頃の社会である。

 コロナの感染者累計は世界で6、800万人(12月10日、WHO)、日本でも17万人を超えた。死者は世界では155万人(日本は2,553人)を超え、例としてふさわしくないとは思うけれど、なんとなく第三次世界大戦勃発みたいな感触すら覚える。

 そうした中で、新しい商品やサービスを考えるなど、多くの人が生き残りに必死である。それは自分の生活を守るためである。生き残るためである。もちろん企業の生存には、自分だけでなく従業員や関連会社なども含めた多くの協力が必至である。

 自らや従業員などの生活を守っていく基本は、企業活動の活性化である。そして10分の1、20分の1に減った売り上げをどうすれば元に戻せるか、なんなら更に増やせるかが経営者にとっての緊急な課題になる。なぜなら、経費の節減よりも売り上げの増加こそが、企業存続の基本だからである。

 新しい商品の開発、更なる隙間を狙ったサービスの発見など、手を変え品を変えての企業戦略は、まさに「生き残り」を賭した戦いでもある。

 そんな時に、「こんな時代なので、何とかして皆さんに元気になってもらいたい」みたいな言葉が、経営者などの口から最初に飛び出してくる。その言葉に嘘があると思っているわけではない。言ってることが信じられないと言うわけでもない。でもどこかに、本音の隠された嘘っぽさを私は感じてしまう。

 それは素直な気持ちではないからである。本当に「コロナで苦しんでいる人たちに、少しでも喜びを与えたい」と考えて、ラーメン店は新しい商品を考えたり出前に精を出したりしているのだろうか。そして農家はそうした思いに駆られて、少しでも安くて品質の良い野菜を苦しんでいる人たちに安定供給したいと思っているのだろうか。

 トータル的にそうした思いが嘘だとは思わない。でも第一にくるのは、「自らの利益」なのではないだろうか。安定的な収益があってこそ、例えば社会への貢献、他者への安心の供与などの余裕が生まれてくるのではないだろうか。

 「企業は慈善事業ではない」などと、言い分をばつさり切り捨ててしまうほど、割り切っているわけではない。それでも、この「皆さんの役に立ちたい」との思いが言葉の筆頭に来ることなど、少なくとも私には信じられないのである。もし、そう思う人がいたとしたなら、それは金持ちの単なる気まぐれか、慈善への妄想にしか過ぎないように思うのである。

 そしてよく恥ずかしくなく、「皆さんの元気を応援したい」などの発言を公衆の面前で言えるものだと思ってしまうのである。それは単に私に他者を支援し続けるだけの資力がなく、我が身を維持することに汲々としているだけの身勝手な生き物だからなのだろうか。

 どこかで「衣食足りて礼節を知る」みたいな言葉が浮かんでは消えていく。「皆さんの元気への貢献」を、単に「礼節」という一言ではしょってしまうつもりはない。だが、飢えた我が身に他者を助ける余裕はないのでないか、そんな思いが繰り返し繰り返し私を襲う。



                        2020.12.12      佐々木利夫



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皆を元気にしたい