マイノリティー論議が盛んである。何か特別な意味を持つ熟語なのかとネット検索してみたら、単なる「少数者」、「少数派」の意味だった。特別な少数ではなく、単に「少数派」であることだけでマイノリティーの要件を満たすらしい。そして現実のこの語の使われ方の意味が分からなくなった。

 マイノリティーと言う語は、日常会話に表れることは少なく、むしろメディアで使われる場面が多いように思える。そしてその意味は、主として「保護されるべき少数派」である。そこにきて私は、その「保護されるべき・・・」が分からなくなってきたのである。

 私がこの言葉に接したのは、恐らく「性的マイノリティー」を意味する場面が始めてではなかったかと思う。いわゆる LGBT(レズビアン・女性同性愛者、ゲイ・同左男性、バイセクシュアル・両性愛者、トランスジェンダー・性別越境=自らの性別の役割に違和感を持っている状態)を社会的に承認しよういう意味である。

 もっと分かりやすく言うなら、性的少数者を守ろう、理解しようとする運動である。例えば同性愛者同士の結婚を、意味的にも法的にも認めようとする考えである。そのことの意味が分からないと言うのではない。

 世の中男と女しかいないとする社会を、私たちは長い間当たり前としてきた。男と女がいて、結婚して子孫が増えていく、そんな社会を私たちは制度として守ろうとしてきた。それはつまり、世の中は100パーセント男、100パーセント女と言う隔絶された性できちんと区別されているとし、その区別の中に中間的な位置などないとする考えである。

 こうした考えに反するような行動や制度は、社会に不適合な考えとして拒否され排斥された。そして場合によっては犯罪として処罰されるまでになった。もしLGBTを少数者として区分するなら、まさに少数派の存在そのものを社会が拒否したのである。

 性は男女に整然と区別されているのかは、今では疑問視されるようになってきている。つまり、中間の性、もっと具体的に言うなら男と女は性として区別されているのではなく、連続しているのではないかと言う考えである。そしてそれを裏付ける証拠も見つけられていると聞く。

 ここではそれを取り上げたいのではない。それはそれとして貴重な研究であり、人間更には動物や植物の性を考える上で重要だとも思っている。また、個人的にも大いに興味がある。

 ただ今日ここで書きたいのは、それとは別の意味での「言葉の使い方」としてのマイノリティーである。マイノリティーという表現は、必ずと言っていいほど「少数者を守れ」という意味で使われる。

 その前提には、「少数者にも個人的な権利がある」と言う発想がある。「虐げられている少数派にも人権がある。だから尊厳をもってその人たちを守ろう」とする考えである。そしてそうした考えは常に正しいとする論調が付加される。

 マイノリティーに対する思いは性だけの問題ではない。宗教や人種や信条などなど、多岐にわたる。でもそこに共通しているのは、「マイノリティー保護は当然」とする考えである。マイノリティーは理屈抜きに「守るべきもの」とされるのである。そこに私は疑問を抱くのである。

 当面ここでの話題は性に限ろう。ある人が同性の相手と結婚したいと考えたとする。その思いを保護し理解しようとする考えが分からないではない。でも性の嗜好対象が成人の同性に向かうのだけがマイノリティーではないだろう。もしそれが、小児性愛に向かうとしたらそれをどう考えたらいいのだろうか。また、強姦を繰り返す者やストーカーもまた、マイノリティーに含まれると言ってもいいのではないだろうか。

 そうした性犯罪者には、国によって刑罰としてGPS(位置情報発信機)機能のついた足環の装着を義務づけていると聞いたことがある。一般人の誰もが性犯罪の被害者やその家族にならないよう、そうした犯罪者の所在を常にチェックできる体制が社会的に承認されているのだという。

 それは性犯罪者を排斥するための手段である。決してその者を守ろうとする行為ではない。ここからも分かるとおり、「少数者であること」とその少数者が「守られるべきであること」とは、まるで結びつかないのである。

 でも巷間言われているマイノリティーの使われかたは、常にと言ってもいいほど「守られるべき」一辺倒で構成されている。あたかもGPSをつけた小児性愛者はマイノリティーではないかのように・・・。

 そうした考えの背景には、「守られるべきマイノリティー」と「守らなくてもいいマイノリティー」が、語の中に所与として組み込まれているかのようである。そうでないとするなら、マイノリティーという語そのものの中に、始めからから「守られるべき」という伏線が込められているのだろうか。

 つまり、マイノリティーは単なる言葉としての意味を超えて、潜在的に「守られるべき正義」みたいな意識が与えられているような使い方が気になるのである。

 改めて私がここで言いたいのは、「マイノリティーを守れ」だけを頑固に主張するのに抵抗があることである。私は「守るべきマイノリティーとは何か」を予め定義、もしくは約束をしておく必要があるのではないかと考えている。そうした定義なくして、いくら「マイノリティーを守れ」と言ったところで、その主張はあまりにも空疎である。

 そしてついつい私は、「マイノリティーよ奢るな」とか、「マイノリティーよ威張るな」、「マイノリティーに便乗するな」などと言いたくなってしまうのである。



                        2020.10.13      佐々木利夫



            トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
マイノリティー