もう二月以上も前のことになるが、新聞にこんな言葉が載っていた。

 「人は惑わされやすく、飽きやすく、慣れやすい」(2020.3.8 朝日新聞、加藤登紀子のひらり一言)。

 別にこうした意見に反論したいと思ったわけではない。むしろ、その通りだとも感じた。その上でこの言葉にどこか引っかかったのは、それが人間の本性ではないかと感じたからであった。そして、ことさらにこうした意見をあからさまにしたところで、意味がないのではないかとも感じたからであった。

 人は多くの情報に惑うことがある。中には確たる信念に基づいて、揺るぎない心で対処する人もいるだろう。でも、ちょっと想像するだけで、そんな確信のみで行動するような人は、恐らく例外的にしか存在しないのではないかと思ってしまう。それは、その人その人の惑いに対する思いが、余りにも多様だからである。

 無限や無数とは言わないけれど、人の心はその人が思っている以上に多様である。人は様々な選択の中から、何かを選び続けながら生きている。どんな行動も、それが多様な選択肢の中から一つを選択することだからである。

 その決断が、常に重要なものだとは限らない。時には入試や就職、結婚など、人生を左右するような決断になる場合がないとは言い切れないけれど、何を食べるか食べないか、友人と明日会うかそれとも明後日にするかとか、今寝るかそれともこの番組を見終わってから寝るかなと、どうでもいいような選択の場合だってあるだろう。

 そんな多様な選択肢に囲まれながら、私たちは自身の人生を送っている。そうした個々の決断に、常に迷うとは限らないかも知れないけれど、そして時に迷いそのものの存在に気付かない場合もあるだろうけれど、その選択のあらゆる場面に、迷いと言う要素、そして決断と言う要素はついて回るのである。たとえそれが、昼食をラーメンにするかカレーライスにするかなどの、些細な決断だとしてもである。

 だから、「惑う」という考えそのものが、もしかしたら程度の問題なのかも知れない。無視したってかまわない程度の軽い惑いから、人生の岐路を分けるような重たい惑いまで、様々な惑いがあるだろうからである。そしてそうした無数とも言える惑いの渦中に、人は存在している。それは、言葉を代えるなら「人は惑いで構成されている」と言い切ってもいいほどである。

 考えても欲しい。人が惑うのは、成長するための原資としいうか、必須の要素なのではないだろうか。惑うことの反語は、確信とか信念とかいうのかも知れないけれど、時にそうした確信は「頑固」、「執念」、「妄想」、「独りよがり」に通じることだってある。

 時に人は「君子、豹変する」ことで、目前の危機に対応しなければならない場面に遭遇する。しかも、「目前の危機」は、もしかしたらフェイク(嘘)かもしれない。どこまでその危機を信じるかは、その人の人格である。対面する危機に対峙して、嘘と分かってから相手を粉砕するか、それとも確信のないままに行動し、現実の危機であると分かったことで玉砕し自滅するかは、まさにその人その人の全人格に委ねられる。

 惑うことは、どこか弱気、臆病に見られがちである。そしてその延長に卑怯、愚鈍、間違いなどの感情が居座っているような気がする。つまり、「迷うことは間違いである」みたいな意識を、暗黙裡に私達に与える。

 それでも、噂や確認できない情報を、間違いだとして「信じることを拒否する行為」が、もし真実を伝えているのだとしたらどうする、との意識が人を不安にする。

 事実を確かめるという選択肢を選べばいいじゃないかと言うのは簡単である。証拠を集め、惑いの原因となる情報が真実なら信じろ、嘘なら無視せよ、と言うのは簡単である。そしてその通りだと思う。だが確信なしに信ずると言う行為は、確かめる手段を持たない者にのみ認められた、数少ない手段であり特権である。

 この投稿者も、「惑うこと」をネガティブな行為としてとらえている。だが金銭的な弱者、そして同時に情報的にも弱者でもある多くの国民市民人間が、その弱者であるがゆえに一番簡単に危険から逃れることのできる手段、それが「確信のないままに信ずる」ことであり、「惑うこと」→「そこから逃げる」はつまり、「確信する前に行動する」、「証拠なしに、逃げ出す」ことを実践することだったのである。

 もちろんそのことで、そこから得られたであろう利益を失う場合もあるだろう。でも本当にそれは利益喪失だったのだろうか。

 虎穴に入らずんば虎子を得ず」という。確かに「虎子」は美味なのかもしれない。この上ない幸せを、食べた人に与えてくれるのかもしれない。でもその美味の対極は死である。自らの死と引き換えの「美味」である。私達の使命は、多くの場合「生き延びること」にある。そして得られる利益はどうしたって「生延びる」ことと引き換えにするほどの価値を持つことなどないように思える。

 死を賭するほどの利益が虎穴の中に存在しているとは、私にはどうしても思えないのである。「虎子を得る」という利益は、どこまで「自らの死」と秤にかけることができるのだろうか。そこのところが解決できなければ、私たちは「生き延びること」と「虎子を得る」こととを比較することなどできないだろう。

 その虎子が、たとえ食う利益=美味という方程式ではなく、もっと別の例えば金銭であったり名誉や権力という答であっても同じである。その答が個々人によって異なることを容認したうえでも、私はその答と「自己の死」とを並べようとは思わない。

 投稿者が続ける、「飽きる」も「慣れる」も同じである。常に証拠を求めて正しい判断を己に課すか、それとも確信のないまま噂や感触に流され、それに己の将来を委ねるかを迫られたとき、人はどうするのか。

 問題となるのは、確信を得るために努力するする方法を選んだ場合は、そのための時間の時間を必要とすることである。確信に至ったときでは、その時間のロスのために手遅れになっている場合だってある。いい加減に判断することや噂に流される選択をしたときは、その行動は「今すぐ」、そして「いつでも」できるのである。しかも、それが誤った選択だったとは、必ずしも言い切れないのである。

 教訓。「善は急げ」ではないのかもしれない。「急がないと、善は善であることを止めてしまう」のかもしれない。外国の諺でも言うではないか。タイムイズマネー、時は金なり・・・と。


                        2020.5.9        佐々木利夫


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人は惑わされやすい