日本学術会議の会員の総理大臣による任命が揉めている。学術会議の推薦した候補者100人近い中から、6人が任命されていなかったからである。
揉めている原因は単純である。推薦名簿から6人を外したのは、学問の自由をないがしろにするものだと、政府野党をはじめメディア、学者などがこぞって主張しているからである。
どんな理由で任命から外されたのか、菅首相はその理由を明らかにしていない。除外した理由をきちんと説明しないことこそ揉める原因だとする意見もあるだろうが、任命や除外に理由を明らかにする必要があるのかとする意見も当然にあるだろう。
わたしも過去に人事異動や勤務評定など人物評定に関わった経験がある。しかしながら、その評価の内容や理由について、本人に理由を明示することなどしなかった。私は評定と言うものはそれでいいと思っているし、むしろ人事とはそういうものだとすら感じている。
今日の話題は、この総理大臣の任命に関する是非を論じた新聞寄稿に関するものである。寄稿内容は任命拒否をした菅総理大臣の行為を批判するものである。
「
侵された法の支配と学問の自由 真理を軽視 菅氏に不信感」(2020.11.21 朝日新聞 早稲田大学教授 政治学 豊永郁子)
こんな見出しで、論者は次のように論評する。
「
・・・まず、首相の任命拒否は日本学術会議法に照らして適法でない。このことは通常の違法行為とは次元の異なる深刻さがある。法律の執行者である首相が法律を適切に執行していないことを意味するからだ。同法は、会員は学術会議の推薦に基づいて首相が任命すると定めるが、これは首相が推薦通りに任命を行うことを意味する。」
ここで彼女は、いきなり「任命拒否は適法でない」と根拠を示さず断じ、「推薦通りに任命を行う・・・」のが法の意味だとする。彼女も引用しているが、法律は「推薦に基づいて首相が任命する」と規定しているのみである。決して「推薦どおりに」とか、「推薦された全員を」などと規定しているわけではない。そして「任命する」と規定していることは、首相の裁量権を否定してはいるものではないということである。
「基づいて」の意味を「推薦された者全員を検討しないまま」の意味には、少なくとも私にはどうしても読み取れない。推薦されなかった者を首相が勝手に任命することはできないかもしれないが、推薦者の中からある種の評定を加えて任命することは、首相の裁量で可能だと思う。それこそが「任命」なのであり、推薦人名簿から除外する「拒否権」があるからこそ、「任命」の文字が生きてくると思うのである。
それを「推薦された者全員を例外なく任命しなければならない」の意味に勝手に解釈して、だから首相の任命拒否は法令違反だとして「適法でない」と論者が主張するのは間違いである。
もちろん推薦された者を無視したり、推薦された以外の者から勝手に任命するなどの事例が存在するときは、法令違反とされたり任命権の乱用とされることもあるだろう。具体的にその状態を例示することはできないけれど、本件程度の100人もの推薦名簿と、その中から6人が任命しなかっことくらいでは、違法とされることはないだろう。論者の見解によれば、一人の任命拒否も許されないことになるからである。
更に彼女は、推薦通りの任命は「
1983年に・・・中曽根康弘首相の国会答弁などで確認され、確定していた解釈だ」とする。しかし彼女も認定しているように、それは「そのように了解され運用されてきた」だけのことであって、厳密な法解釈の下での判断ではない。一首相の了解や運用で、法律解釈が右へ行ったり左へ行ったりするものではないからである。
中曽根答弁に続けて、論者は更にこんな意見を続ける。「
・・・法令や規則などで、正式な任命と実際の選定とが切り離され、別々の主体に属することはよくある。官民を問わず様々な組織で見られることだ」。
果たして彼女はここで何を言いたいのだろうか。任命行為は形式的なもので、推薦された者全員を機械的に任命しなけれはならないことを、「正式な任命」、「実際の選定」という形で表現したかったのだろうか。仮にそうだとするなら、その具体的な例を明示すべきだったのではないだろうか。
なぜなら論者はそうした例が「官民を問わ様々な組織」で「よくある」としているからである。分かりやすい具体例を、新聞の読者に2つでも3つでも示す必要があったのではないか。
にもかかわらず、論者は何一つとして具体的な例を示すことをしていない。読者は、「別々の主体に属すること」が「よくある」にもかかわらず、どんな例があるのか何一つ分からないままである。
私は論者の主張が間違いだとか許さないなどと言いたいのではない。学術会議の任命方法に賛否の意見があったところで、それはその人その人の考えなのだから、賛成でも反対でも自由に意見を述べるべきである。
ただ私は公器とも言える新聞紙上に、根拠も示さず適法だの違法だとの意見を述べることに、抵抗感があることを言いたいのである。トランプアメリカ大統領が就任した4年前以降、どんなに大きなメディアであってもそのニュースは「フェイク」(嘘)だとする風潮が世界を賑わしている。だとするなら、根拠を示さずにある事実を批判することも、現代では許されるのかもしれない。
でも私は法治国家である現代日本には、まだ法と秩序が残されていることを信じたいのである。法律の分野に、情緒とか思い込みなどが踏み込んでもらいたくないのである。
法の世界を特別神聖視したいと思っているわけではない。それでも私たちのよりどころは、つまるところ法にあるのではないかと思っている。たとえそれが悪法であったとしても、法に頼るしか私たちは生活の寄る辺はないのではないか、そう思っているのである。
単にその見解なり選択なりについて、「私はあれが好きだ」「そこが嫌いだ」を述べるだけなら、それはそれで分からないではない。ただ、好悪の感情と適法・違法とは、完全に分離して考えるべだと思うのである。両者を混同させてはならないと、私は頑ななまでに思い込んでいるのである。
2020.11.21 佐々木利夫
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