他人の意見にじっくり耳を傾けるような機会は、この歳になるとせいぜいテレビか新聞くらいしかなくなってくる。演説会や講演会、音楽会などなど、出かける機会がないと言うわけではないけれど、どうしても自宅での引きこもり傾向が強くなってしまうからである。

 特に最近は新型コロナウィルスの感染拡大に伴って外出の機会がますます減ってきているので、ダイレクトに話を聞く機会など減るばかりである。テレビではコロナ関係が多いのだが、専門家なのか識者なのか、それとも一言居士の学者か評論家かはたまた単なる有名人か、肩書きはともあれ良く分らない人物がテレビ画面を占拠することが多くなってくる。そしてそれらの人たちの意見が、嫌でも耳に入ってくるようになってくる。

 耳に入ってくるのは別にコロナウィルスの話題だけではないのだが、様々な論説や意見の中で気になる言い回しがある。それは「・・・と思う」とか「・・・と私は思っている」などの表現があまりにも多いことである。

 もちろんその人が思っていることを、「私はこのように思っている」などと発表することに異議を唱えようと思っているわけではない。その人がどんなことを、どんな風に思おうと発表しようと、そしてまたその思うことが仮に私の考えに反したり、時に法令に違反する事柄であったところで、それは「その人の意見」という意味で
は、それなりに尊重しなければならないとは思っている。

 ただその言い方が気になるのは、どこかで「自分の思い」を他者に強制しているように思えることである。「私は思う」という表現は、その背景に同調とか共同の意思を秘めていると私は考えている。だとするなら、言い方なり説得方法に、謙虚さであるとか控え目な主張みたいな、一歩下がった感情があってはじめて成立するように私は思うのである。そうした言い方なり感情が、説得力の源泉になっているのではないかと思うのである。

 「私はこのように思う」ことを他者に押し付けるのではなく、一つの意見として控え目に提示する範囲内の主張なら、まだ理解できる。でもその意見を、「正しいのだから信じろ」、「これしかないのだ」と一方的に主張する言い方は、逆に言ってることの理屈を超えて間違ったメッセージになっているのではないかとすら思ってしまう。

 もちろん「思う」だけなのだから、当然にその背景たる主張の理屈に証拠はない。それにもかかわらず、聞いているほうが信じようが信じまいが、とくかく一方的にまくしたてるのである。

 そんな主張を聞いていると、ふとこれらの人たちから肩書きを外してしまったらどうなるのだろうと、考えてしまう。何とか大学の教授だとかなんとか委員会の理事長などといった肩書きを、その人たちから完全に外してしまったら、その主張の持つ説得力はどこまであるのだろうか。

 肩書きが無用だと言っているわけではない。だが肩書きが表出する説得力は、その肩書きにいたるまでに積み重ねた本人の研究であるとか努力などの、私達を説得するに足る実績かあるからだと思うのである。

 だとするなら、それは単に「私は思う」ではなく、「これこれによれば・・・」とか、「○○の研究によれば・・・」など、仮に学問的な証拠でなくても、そこに「確からしさ」を示すことができるからではないかと思うのである。

 テレビでの解説や主張は、単なる無責任な放談ではない。しかも肩書きつきで主張すると言うことは、その主張に少なくとも「確からしさ」の裏づけがあってこそ、視聴者へのアピールが許されるのではないだろうか。

 もちろん自身が正しいと思うからこそ、「私はこう思う」と発信するのだろう。でもそれを逆転させて、「私はこう思う」、だから「あなたもそう信じなさい」とまで言い募るのは、私には一種の思い上がりであるように思えてならない。



                        2020.12.6      佐々木利夫



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