こうした声かけが、時間を問わずに交わされているのが変だとのインタビュー記事が新聞に載った2020.6.4 朝日新聞、論の芽、疲れてなくても「お疲れ様です」 便利だけど、フジオ・プロ社長 赤塚りえ子)。

 確かにそうである。「お疲れ様」の意味は、「あなたは色々な意味で疲れている(ように見える、もしくは疲れるような仕事をしてきた)。だから、早く疲れがとれるといいですね」のような意味を相手に投げかける言葉である。

 だから、声をかける相手の目には「あなたは疲れている」、もしくは「疲れているように見える」、更には「疲れて当然のような仕事をしていた」との受け止めがあるのだろう。だから、「疲れていない」のにそのような声かけをされるのは、かけられた側としてはどこか心理的に抵抗感があるのだろう。

 もちろん相手にそう見えるというだけのことだから、実質的に疲れているかどうかは無関係である。相手にそう見えるということは、見えただけのことだから、それをあえて否定するまでのことはないとも言える。

 ただ、相手の思いが誤解であり、それを否定したい、もしくは訂正したいと受け手が考えたとするなら、それもまた声をかけられた側の任意でもあろう。

 このインタビュー記事を読む限りでは、ことはもっと単純で、「相手の疲れ具合には無関心のまま、単に慣用句としてこの言葉が交わされていること」が不自然だと言っているようである。つまり、「疲れていないのに(もしくは疲れているいないに関係なく、お疲れ様と言うのは変ではないか」ということである。

 こうした考えの背景には、人同士の会話に対する思い込みがある。つまり、「言語の持つ必要なことの伝達性」である。ある意志を伝えるために人は言語を発明し、その言語を用いて人は自らの意志を伝えるために会話をすると言う発想である。

 そのことは正しいと思う。人が言語を発明したのは、例えば危険の告知とか獲物の発見など、己の意志を他者に伝達する必要が生じたからだと思う。だから、「無意味な会話」という発想そのものが、ナンセンスなのかもしれない。

 だが、私達の社会が複雑化していくにしたがって、一種の「無意味な会話」の場面が増えてきたのではないだろうか。それは決して「無意味=無駄」ではなかった。人が人とコミュニケーションをとるためには、一種の「無意味な会話」が必要とされるようになってきたのだと思うのである。

 私達の会話の中に、「必要なことを伝える」意味での会話はもちろん基本である。多くの会話が、そのためになされていることを否定はしない。

 それで、会話の内容が「必要なことを伝える」ことだけに限定されているかについては、かなり疑問である。例えば挨拶、それは挨拶そのものに意味があることから発祥したのではないだろうか。挨拶の内容は、文言としてはそれほど重要でないことが多い。

 朝私たちは、「おはよう」といろんな人たちに声をかける。「おはよう」は、おそらく「まったくの未知」であるような人に向かって発せられることは稀ではないだろうか。その範囲について私は調べたことがないので分からないけれど、何らかの関係のある者に「あいさつ」として交わされるのである。

 しかも、「おはよう」に特別な意味はない。言葉としての「おはよう」は、単に時刻が早いことだけを表現しているだけにしか過ぎないからである。しかも、「何に対して早いのか」も示すことなどない。単に「朝ですね」の声かけにしか過ぎない場合だってある。

 更にいうなら、「おはよう」は特定の人に対して、一日一度きりの会話である。「おはよう」と声をかけた人に、その日再び会ったとしても、再度「おはよう」と声かけすることはない。

 つまり「おはよう」は、その言葉とは無関係に、「おはようと言っても違和感のない時間帯に、あなたと私は今日始めて会いましたね」と言う、一度きりのコミュニケーション手段だからである。もちろん明日になれば。新たな「おはよう」が始まるだろう。でもそれは、決して今日ではないのである。

 あいさつのほとんどがこの部類に入る。「さようなら」も「こんにちは」やこんばんは」なども、「おはよう」と同じような位置にある。

 相槌もそうである。単に「あなたの話を私は興味を持って聞いていますよ」の気持ちを伝えることだけに、意味があるのである。

 そうした感じは、この記事に登場するインタビューされた側も理解しているようで、その理解も、「変だ」から、「日本人はみんな疲れているのか」に変化し、「軽いあいさつの代わり」にまで落ち着いてきているようだ。

 言葉は言葉本来の「文字的な意味」のほかに、様々な情緒を伝えられるようになった。その情緒は、どんな場合も発した者の意図通りに伝わる保証はないけれど、日本語としての多様化に資しているのではないだろうか。

 もちろん誤解されてしまうような使い方は避けなければならないとは思うけれど、豊かな日本語の一体系に、こうした「意味以外に伝える役割」を加えるのも、豊かさの象徴になっているような気がする。


                        2020.6.4        佐々木利夫


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