ライト兄弟によって飛行機が発明されたのは1903年のことだと言われているから、飛行機の歴史はせいぜい100年余りでしかない。世界の各地をつなぐ民間航空機の歴史を私は知らないが、私の生まれた昭和15(1940)年は既に戦争で飛行機が存分に使われていた。第二次世界大戦の末期では日本軍は「ゼロ戦」と呼ばれる特攻隊機がトンボのように弱々しく空を舞い、日本各地の都市にはアメリカ軍の戦闘機B29が爆弾を雨あられのように投下していた。

 だから私の生まれたとき、パイロットと言う名の職業というか資格は、既に存在していたことになる。だからと言ってこのエツセイのタイトルが、私の夢だったと言うことではない。新聞に載った読者の投書からの引用である。投書者は彼の友人が抱いていた夢をこんな風に語る。

 「パイロットの夢破れた友の名は」(2020.1.13、朝日新聞、声 神奈川県、会社員、48歳男性)

 「・・・我々の世代は『団塊ジュニア』と呼ばれ、・・・『就職氷河期』として戦後最悪の就職率を経験した世代です。・・・高校1年で出会った・・・その友人はパイロットになる夢を既に持っていました。夢をかなえようと、体を鍛え、四国から関東の大学へ進み、視力さえ矯正します。なのに、就活時期に待っていたのは、航空会社による「採用予定なし」という発表でした。友人はパイロットへの挑戦すらできず、違う業界に入っていきました。いつの時代も大人達が勝手に政治や社会をコロコロと変える。とばっちりを受けるのは若い世代や子供たち・・・

 投稿者は自らを「団塊ジュニア」と称しているので、1971から1974年頃に生まれた年間出生数200万人台の世代を指すのだろう。現在、50歳前後である。因みに2019年の年間出生数の推計値は、統計開始以来最低の90万人を割ると言われている(厚労省、2019.12.24 発表)。この半減以下になった変化は、別の意味でも興味深いものがある。

 一方就職氷河期とは、これらの世代が大卒者となった時代から始まり、バブル崩壊期とその後遺症から立ち直れないでいるつい数年前までの、かなり幅広い期間を指している。

 それはともあれ、投稿者の友人は様々な努力にもかかわらず、そもそもパイロットの採用予定がないと言う事態に遭遇したということである。その無念さは、パイロット願望のまるでない私にも、十分に理解できる。はしごを外されたのではなく、始めからはしごがなかったのだから、その落胆さはいかばかりだったことだろう。

 そはさりながら、その落胆させた責任を、「いつの時代も大人達が勝手に政治や社会をコロコロと変える」ことに転嫁してしまう投書者の考えに、私はどことない違和感を覚えたのである。

 彼の「大人達が勝手に政治や社会を変え、そのとばっちりを受けるのは若い世代だ」とする主張は、パイロットの募集がなかったことだけに限るものではないだろう。就職氷河期そのものの存在をも包含する社会全体の風潮(具体的には不景気)を指しているのだろう。そうでなければ、「政治や社会」などとは決して言わないだろうからである。

 私はこの時期のパイロット募集中止の経緯を知らない。だから、航空機業界に何が起きたのかも、具体的にはまるで知らない。しかし、当事者たる投稿者自身がその原因を書いていないのは、主張としては偏っているのではないだろうか。書くことがはばかられるような、大人達による何らかの画策があったのかもしれないけれど、彼は原因を知っているからこそこのように主張したのだろう。

 でももっと簡単に考えられる原因がある。つまりパイロット募集のなかったことが、特殊・特別な画策による大人達の操作ではなく、単に不景気で大卒者を採用しようとする企業がなかったからだと考えることである。採用中止が全ての航空会社だったのか、それとも一部の航空会社だけだったか、そこも分からない。だが、「今年のパイロットの募集は見合わせよう」と考えた企業があったということである。

 もしそうだとするなら、果たしてそのことのどこが「大人達が勝手に政治や社会を変える」ことになるのかを示すべきでなかっただろうか。不景気そのものが、大人達による勝手な演出だったとでも言いたいのだろうか。好景気や不景気というものが、大人達の自由な裁量で変えられるものだと主張したいのだろうか。

 だとするなら、その「大人達」とは一体誰を指しているのだろうか。当時私も大人達の仲間だったと思うのだが、残念ながら私には航空業界のみならず社会の不景気も含めて、そこまでの影響力を持つ力などまるでなかった。

 ならば、大人達とは政治家や経済界のトップなどを指すのだろうか。だとするなら、彼はそのことを具体的に示すべきではないだろうか。証拠をあげて事実として示すのでなければ、彼の主張は「郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、みんな私が悪いのよ」と謡われる俗謡と同じ程度のレベルの主張でしかないことになる。

 「社会が悪い」、「政治が悪い」、「大人が悪い」、「近所が悪い」などの言い方は、いかにも尤もらしい響きを持つけれど、そんな言い分が何を生むというのだろうか。

 パイロット募集がなかったことで、友人が採用試験を受けるチャンスを失ったことは残念なことだとは思う。しかし、「受験できるチャンスがなかった」ことと、「募集があれば合格した」こととは、まるで関係がない。それとも、彼はその友人が採用されるまで、募集人員を増やすべきだとでも主張したいのだろうか。そして、彼が採用されなかったのは大人達が勝手に社会を変えたからだと、投書者は本気で思っているのだろうか。

 それにも増して気になるのは、その友人自身のことである。確かに今年のパイロットの募集はなかった。だがそれは、常識的に考えて企業は翌年は必ず募集するだろうことを意味しているのではないだろうか。その友人は、今年だけでパイロットへの夢を諦めてしまったのだろうか。

 芥川賞を目指しながら、生涯獲得できなかった人もいるだろう。また私のように、受賞を夢想しただけで、少しも努力しなかった者もいるだろう。一口に「夢」と言っても、その軽重は様々である。パイロットになる夢は、その友人にとってどの程度の重さだったのだろうか。一度きりの挑戦で、すぐに「違う業界」に入る程度の軽い夢だったのだろうか。つまり、友人にとっては「これしきの夢」でしかなかったと言うことなのだろうか。

 ましてや嘆いているのは本人ではない。そんな無責任な立場にいる投書者が、友人の入れなかったパイロットへの夢に対する挫折を、「大人達が勝手に社会を変えるからだ」などとしたり顔で主張するのは、まさにちゃんちゃらおかしい、と私は思うのである。


                                2020.1.18        佐々木利夫


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パイロットになる夢