レッドゾーンとはどんな意味なのだろう。レッドの赤は恐らく血の赤だろうから、危険とか禁止を意味するのだろう。ゾーンは地域とか地帯だから、レッドゾーンとは、立ち入り禁止もしくは進入禁止、危険地帯・・・、そんな意味なのだろうか。

 だとするならこうした言葉は、それほど珍しい使い方ではない。「危険、立ち入るな」程度の警告ならば、看板とか貼紙などで日常的に見受けられるからである。

 私が最近この言葉を聞いたのは、コロナウィルス騒ぎに関連したニュースでである。コロナ患者を収容している病院で、その患者を収容している病室や病棟に、こうした警告がなされていたのである。立ち入り禁止の対象者は「あらゆる人」ではなく、単に「許可された人以外」程度の意味だと思う

 警告の意味は分った。そして必要だとも思った。むしろ当然の措置だとも思った。そしてそこから、私の妄想とも言えるへそ曲がりが始まったのである。

 程度の差はともあれ、コロナ騒ぎによって今の時代、世界中の人々がある種のレッドゾーンに閉じ込められている。自らの居住区間がレッドゾーンになっているという意味だけではない。自らの居住する地域以外がレッドゾーンになってしまい、自らの地域が檻の外か内かの区別すら、事実上不可能になっていることが当たり前に起きているからである。

 新型コロナウィルスによる世界的感染の拡大が累計患者数で7000万人、死者数では160万人を超えたと言う(WHO)。マスク・手洗いを推奨した時期までは、レッドゾーンじみた考えはあまりなかった。だが感染の拡大は、人々の生活スタイルそのものを一変させた。「人と会うな」の宣言は、飲食や買い物や旅行も含めて外出するなに広がり、やがて人と話すな、会食するな、電車やバスに乗るなにまで拡大していった。

 そしてそれは、正月の初詣への干渉にまで及ぶ。コロナウィルスは人から人への感染である。だから、感染者のウィルスを含んだ唾が、咳やクシャミなどで隣人に拡散していくことが感染拡大の要因である。だから「人と人が密に接触するような場面は可能な限り避けよう」が世界共通の合言葉になっている。

 人と会わないこと、それが感染拡大を防止する唯一の手段だと、時に法規制まで含めた行動の制限が行われている国すらある。初詣も似たような規制の一つに入る。そしてそれを嘆く神主や巫女がテレビに登場する。それはそうだろう。年に一度のかきいれどきを、理不尽にも制限されてしまうことになるからである。

 そのとき私は、マスク姿の神主や巫女の姿を見てこんな風に思ったのである。

 「あぁ、神様にもコロナは治せないんだ

 私はどちらかと言うと無神論者である。哲学的に無神論を信奉していると公言するほど徹底しているわけではない。時には信じてもいないくせに初詣の神社に10円玉数枚を賽銭箱に投げ入れて、家内安全を願うこともある。また、知人や親族の通夜で、神妙に僧侶のお経や説教を聞くことだってある。イスラムの儀式に参加したことはまだないけれど、キリスト教の教会を訪ねたことや葬式に参加したこともある。

 まあこれらは「信じている」こととは無関係であって、単に無関心だけれど儀礼的に回りのしきたりになんとなく従っているだけのことである。これは信じているとか信じていないの問題ではなく、まさに無関心による社会慣行のなせる業である。

 だから、神が交通事故や大学受験や良縁などに何らかの効力を発揮することなんぞは頭から信じてはいない。ましてやその願いの成就の程度が、お賽銭の多寡で異なるなんてことを信じているわけではない。だから神がコロナ退治に少しでも力を添えてくれるだろうことなど、少しも期待しているわけではない。

 つまり「神にコロナは処理できない」ことくらい、端から承知である。だからこの「あぁ、神様にもコロナは治せないんだ」は、別に新しい発見でも感激でもなんでもない。

 にもかかわらずこんな思いを、しかも大発見ででもあるように感じたのは、神主や巫女が初詣客に販売する破魔矢やおみくじや絵馬などの準備をしている姿を、テレビで見たからである。そしてそれに関わっているどの人もが、揃ってマスク姿だったことであった。こうした神様に従事するスタッフ全員の、一斉のマスク姿がなんだがとても戯画的に見えたのである。

 世界のどんな神様にもコロナウィルスを封じ込められないことは、感染が世界的に、しかも爆発的に広がっていることからも分る。どの国にも、それなりの神が存在している。その神をどこまで信じているかは国民それぞれだろうとは思うけれど、その神は少なくともコロナウィルスに関しては無力であることが分る。

 そんなことくらい始めから分っているよと、人は言うかもしれない。それについては私も全面的に承認する。一点の疑いもなくその通りだと思う。

 今更コロナ現象を目の当たりにして、「神は死んだ」などと確認したわけではない。でも神の無力が、余りにもあからさまに私たちの目の前にさらけ出されていることが、噴き出したいほど滑稽に思えたのである。あたかも神の死体を目の前にしたように感じたのである。



                        2020.12.17       佐々木利夫



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レッドゾーン