特に特定の番組に決めているわけではないのだが、暇に任せてBSテレビの「放送大学」を見る。予め番組表を検索するわけでもなく、気ままにチャンネルを合わせるので、番組が私の好みと一致することは必ずしも多くはない。

 だから最後まで見てしまう番組が時にないわけではないけれど、多くは数分で切り替えてしまう。内容によっては、例えば語学講座のような番組なら、数秒で切り替えることもある。

 それでも普通の民間チャンネルにはない、例えば数学、統計、心理学、宇宙科学、化学、時には社会科学や文化人類学など多様な講座があり、多少の興味を呼ぶものもそれなり存在している。

 ただ多くの講座で気になるのは、講師の話べた(棒読み、説得力の欠如、台本を見ながらの講義など)が目に付くことが一つ、そしてもう一つは、何故こんなにも専門用語が氾濫しているのだろうかとの思いである。

 そんな中で、過日こんな番組を見て思わず噴き出してしまった。専門用語化が、あまりにも露骨に画面にあらわれてきいるように思えたからである。

 講座の名称は確か交通心理学と題されていたように思うのだが、その日は高齢者ドライバーに関する話題だった。そこにこんなテロップが流れたのである。

 @ 高齢ドライバーの増大→ドライバーが増えると事故も増える傾向
 A 高齢者は身体が弱い→脆弱性の増大


 普通に読んだだけでは、時に違和感は覚えないかもしれない。ましてや、画面には様々なテロップが入れ替わり表示されては消えていくのだから、この部分だけに特に意識が集中するなんてことなど、ほとんどないかもしれない。

 私もたまたまそこに目がいっただけのことだとは思う。でも、気付いてしまうと、この表示がとてつもなく違和感だらけになってしまったのである。

 それは、@とAの表現方法が、まるで逆になっていることに気付いたからである。普通はAのケースが多い。左の「高齢者は身体が弱い」だけで十分だと解されるのに、なぜか尤もらしく「脆弱性」を解説として掲げるのは明らかに変である。

 こうした専門用語が、この「放送大学」の講義にはすさまじくといってもいいほど多い。それに専門用語は日本語だけとは限らない。英語やフランス語、場合によっては特定の外国人学者特有の言葉が引用強調されるような場合には、彼の母国語たるロシア語やイタリア語、場合によってはラテン語なども登場してくるのである。

 学問の世界だから、と割り切ってしまえと言いたいのかもしれない。だが、学問だから専門用語を許容すべきだとするのは、その世界に属している者の驕りではないだろうか。言葉による権威付けは、言葉そのものに対する信頼が不足していることを示しているのではないだろうか。

 それは決して専門用語化することで解決できるものではない。むしろ、平易そして簡潔である方向へと向かうことこそが、その学問の理解を深めるものになるのではないだろうか。

 専門用語の世界に埋没し、カタカナ言葉に逃避してしまうかのような学問の方向は、そのことだけで学問からの遊離を物語っている。それは学問の普及からの孤立であり、象牙の塔への乖離である。

 象牙の塔への道を目指すことが学問だとするのなら、それはそれでいいだろう。誰にも分からぬ専門性の世界に閉じこもり、そこで生涯を閉じることが学問だとするのなら、それはそれで理解できないではない。

 だがもし広く知らせることの中に学問の意義を見出そうとするなら、専門性を否定するつもりはないけれど、専門用語の中に閉じこもってしまうような方向は、学問と真っ向から対立する思いになってしまうのではないだろうか。

 法律の世界でも、政治などの行政の世界でも、専門用語への誘惑は避けがたく存在する。私がかつて勤めていた税務署時代、農業用語に残された特殊用語に悩まされた記憶がある。

 「播種」(はしゅ)〜種を蒔く、「肥培管理」(ひばいかんり)〜作物を育てる、などなど、普段は使わないような用語が並ぶ。どうして分かりやすい言葉で表現できないのか、悩んだ記憶もある。

 法令用語も同様であった。「法令用語の基礎知識」と題される冊子を学んだことがある。冊子になるくらい、法令には独特の用語なり解釈があるのである。「及び」と「並びに」や「もしくは」の違いなどをきちんと理解していないと、法律に書いてあることが正確に伝わらないのである。

 学問にしろ政治や行政の世界にしろ、使う用語が専門用語化していく意味が分からないというのではない、一つには、正確性を求める意識が言葉の持つ冗漫性・冗長性を極力排除したいと考えたのだろう。

 ただそうした意識が、正確性の要求を超えて専門性へと特化していくにつれ、閉鎖的な象牙の塔を作ることになってしまうような気がする。それを上から目線と呼ぶか、はたまた孤立化と呼ぶかはともあれ、他者もしくは自らの属する集団以外の存在者の侵入を、意図するしないにかかわらず排除する結果になってしまっている。

 そうした傾向は、放送大学の講座に限るものではない。あらゆる機能、組織などが、自らの力を拡大していく過程で必然的に陥っていく習癖なのではないだろうか。あたかもそれは、縄張りの確認行為に類似し、他者侵入を絶対的に拒否すると言う明確な意思表示にまで発展していっている。

 専門用語化と明治以降の外国語の日本語翻訳との関連を必ずしも私は理解できているわけではない。だからと言って、日本にはなかった諸外国の様々な考え方を、福沢諭吉などを中心に新しい言葉を作り出していく過程で、その思想を伝えてきた様々な労苦を否定するつもりはない。

 それでも、例えば「哲学用語」などに見られるような、難解こそが目的みたいな風潮があらゆる分野で日本中を駆け巡っている。そうした難解至上主義みたいな思いが拡散していったことは、日本語そのものを貶めることになってしまっているような気がしてならない。

 現代は専門性の非常に高い時代だとは思う。この歳になって見て、こうしてパソコンに向かうだけで、意味の不明な言葉の入り乱れている現状に戸惑っている。それが専門用語なのか、生硬な翻訳技術の不足によるものなのか、日本語の限界なのか、まるで分からない。

 分からないけれど、こうした変化はどこか間違っているいるような気がしてならない。そうした変化を、単に変化する日本語だとか流動化する言語などと言った抽象論で片付けてしまってはいけないような気がする。

 これは「日本語を大切に」みたいな、つもりで言っているのではない。専門用語化への変化は、日本語を私たちから分断し、日本語そのものを細分化させて亜種言語の派生を助長しているように思う。そしてその亜種同士を互いに理解できない言語に追いやっているのではないだろうか。


                        2020.6.28        佐々木利夫


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専門用語化のおかしさ