これもコロナウィルスの影響かも知れない。桜が咲いて、ゴールデンウィークになっても、日本列島は引き続き緊急事態宣言下のままである。人と会うな、行楽地へは行くな、居酒屋やファミレスなどでの会食も自粛など、穏やかになってきた季節とは裏腹に、自宅でのつましい生活が強いられている。
学校も休み、会社も出勤しないでテレワーク、公園などの行楽地はもとよりスポーツジムなども閉鎖され、おまけにジョギングなどもマスクをつけろ、前の人との距離は何メートル以上などど煩わしい。いきおい家庭での閉じこもりが進むことになり、大人も子供も運動不足を含めたストレスが溜まっていくことになる。
そこで、家庭でもできる簡単な体操でストレスを発散しましょう、ということになる。いわゆるテレビを使った簡易な体操の推奨である。
こうした体操には、コロナ禍以前から気になっていた。「簡単、効果的」と言われる体操の、余りにもその種類が多過ぎることである。ラジオ体操みたいな同じ体操が、あちこちの番組で放映されるというのなら分からないではない。
違うのである。多くの番組で紹介される体操は、そのほとんどがその番組におけるオリジナルなのである。そして目的も効果も異なるのである。共通しているのは、「簡単」ということくらいであろうか。子供の頃毎朝通ったラジオ体操は、第一と第二の二つの種類があり、それなり時間がかかったように思うけれど、テレビ番組で紹介される体操はとても短いのである。
その短い体操、しかもそれほど難しくなく、椅子に座ったままでも実行出来るようなものが多い。しかも、その番組のテーマである美容や痩身、健康や体力増強に効果的だと宣伝されているのである。
実行したことはないので、その効果の程は知らない。だから、「効果あり」とも「効果が薄い」とも、「効果がない」などとも評価はできない。ただ、少なくとも「体を動かす」のだから、過剰な運動で体を痛めるようなものでない限り、それなりの効果はあるとは思う。適度なら健康にも悪いはずなどないだろうとも思っている。
でもそれは、体操のシステムと言うか内容についてではない。単に「体を動かす」ということに伴う効果についてだけである。だから、そうした効果の範囲内での意味しかないのであるから、ある運動が糖尿病やダイエットや腰痛などに、効果があると信じているわけではない。むしろ、「個別の効果とは無関係」に、「単に体にいいだろうと思うだけ」にしか過ぎないと言ってもいい。
特定の体操は、特殊な効果だけにしか効き目がないのかもしれない。それにしても、様々な症状に有効とされるされる運動が、「番組の主催者」や「番組に出演する医師や有識者などのオリジナルな体操」まで含めて、余りにも多くの体操が紹介されている。
しかも、そうした紹介が番組として長時間継続されているような気配は、少しも感じられない。一過性の、その場限りの体操の紹介なのである。場合によってはコマーシャルに乗っかっただけの体操すらある。
そうしたオリジナルな体操を開発した人たちには申し訳ないけれど、その体操はまさに一過性であり、泡沫であり、放映の効果すら疑われるような運動なのである。
そしてさらに加えるなら、このコロナ禍によって、更にインターネットを通じた「個人体操」がこれに加わるようになってきた。素人の個人や家族が、そして運動選手や芸能人などの著名人が、こぞってネット配信で体操を紹介するようになってきている。
今やネットによる運動と言うか体操の動画は、山のように溢れてきている。公開された体操動画がどこまで効果があるのか、効果を目的をするのではなく、単に暇つぶしやストレス解消を目的としたものなのか、私には分からない。
それを単に笑い飛ばすだけの道具にしたり、気まぐれに体を動かしてジョークにするというだけならまだいい。でも余りにもそうした動画が、これでもかこれでもかと増加していくような風潮は、どこか変なような気がしてならない。テレビで放映する体操とネット動画とを同一視するような言い方はどうかと思う。
だからと言って、テレビとネットを二分して評価することにも違和感がある。効果も目的も理解しないままこんな言い方をするのは、軽率だろう。でもそんな一過性の泡沫とも言える体操に、果たしてどんな効果があるのだろうか。
私はむしろそうした体操の増加は、体操そのものの効果や目的を貶めることになってしまっているのではないかと思うのである。そんな行為は逆に、体操そのものを軽んじる風潮を助長させてしまっているのではないか、そんな気がしているのである。そのうち人は、見るだけで体を動かさなくなってくる、そんな風にさえ思うのである。
2020.4.30
佐々木利夫
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