このエツセイは、書き始めたのが1月だったにもかかわらず発表が4月になってしまった。書きかけのまま入院してしまい、そのままなんと約一ヵ月半もの病院生活を余儀なくされてしまったからである。しかも引き続きネット環境のない自宅での待機を強いられ、アップロードのできる事務所からは遠くなってしまった。おまけに自堕落な本人の甘えも加わって、発表がとうとう今日まで延び延びになってしまった。
閑話休題、書きかけの話題に移ろう。
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1月21日、この日が私の誕生日である。小説家三島由紀夫は、自分が生まれたときの産湯がキラキラ光る様子を覚えていると、「仮面の告白」の中で書いている。とは言っても天賦の才のまるでない私に、そんな記憶はない。誕生日とは単に戸籍に書かれた日であり、生年月日として親から知らされたと言う程度の極めて日常的な日でしかない。
ともあれ出生の直接的な記憶ではないにしても、昭和15(1940)年の1月21日に私はこの世に生を受けたのである。そして今日はその日から80年目の誕生日にあたる。つまり私は、今日で満80歳を迎えたのである。
第二次世界大戦と太平洋戦争とは一つのつながった事件ではあるけれど、私が2歳になる直前の1941年12月に、真珠湾攻撃を端とする太平洋戦争が始まった。もちろん私にその記憶はない。僅かに残っていると言えば、終戦の1945年以降に経験したひもじさにまつわる空腹の記憶だけである。
遊びも学校も、生活の全てが腹が減っていることにあった。配給所でこぼれた砂糖をこっそり指先で舐めたこと、早朝から納豆売りのアルバイトをして僅かな小銭を稼いだこと、くず鉄を拾っては古物商に持ち込んだこと、ウサギを飼って定期的に学校へ巡回してくる屠殺業者に、毛皮を工賃として渡し肉を持ち帰ったこと、配給の麦粉を製麺所でうどんに加工してもらったこと、他人の畑からきゅうりを盗んで食べたこと、野生のぶどうやこくわやざりがに、どじょうやふななど食べられる野草や生き物は手当たり次第家族の口に入れたことなどなど、戦後の思い出は常に「食べること」に結びついていた。
父は炭鉱の従業員として、機械修理を担当していた。当時大企業だった北炭(北海道炭鉱汽船)は、清水沢という地区に自前の大きな水力発電所を持っていた。だから、各家庭まで電気は届いていた。沢伝いにま発展した炭鉱住宅は夜ともなると山の中腹まで明かりが灯り、華やかな風景を醸し出していた。
だが水道は、五戸一棟のハモニカ長屋数棟をまとめた共同水道があるだけだった。そこから自宅の水がめまで日に何度も運ぶのが、子供の役割りだった。また、同じように天びんで遠くの畑まで家族の糞尿を担いで肥料にしたことなどなど、まさに「何にもない」が日常だった。
もちろんラジオもないし、テレビもなかった。小遣いのない子供が、どんな方法で潜り込んだか分からないけれど、無声映画(これはきっと、住んでいたのが北炭と言う大きな組織の城下町だったからなのだろうが)の映画館で、ターザン、エノケンなどを見るのが僅かな娯楽だった。そんな生活が、私の高校三年まで続いていた。
もちろん高校まで行かせてくれたということは、それなり家庭にも余裕ができてきたことを意味しているとは思う。そして昭和33年、高校を卒業して国家公務員税務職の雇(やとい)として採用された。給料の大半が研修所に隣接した寄宿寮の賄い費などに消えていったとはいえ、月給6300円は自立できた大人のささやかな証しでもあった。
そしてそのまま、定年まで税の世界で過ごすことになり、定年後も税理士としての人生が続いたまま今日の80歳を迎えたのである。誕生日は毎年一回休みなく巡ってきただろうし、必ずではないにしてもそれなりの祝いはしてもらったことだろう。
もちろん幼い頃のひもじさに結びつけた今日の雑文にしたところで、特別「誕生日に限る記憶」とは言えない。恐らく誕生祝なんぞ5人兄弟の最年長者として生まれた私にとって、生活の雑事の中に埋没してしまっていたような気がしないでもない。それでも80回を数えるまでになって、少しずつ「区切りとしての誕生日」を我が身に重ねられるようになってきている。
そうした思いは誕生日の記憶ではなく、むしろ老人としての年齢への思いなのかもしれない。数え歳の区切りを意味する言葉だと聞いているので、本当は昨年が該当年なのかもしれないけれど、80回目の誕生日を「傘寿」(さんじゅ)と呼ぶのだそうである。「傘」の略字を縦に一文字で「八十」と書くかららしい。
私が生まれた頃に戦争があったことも原因の一つかも知れないが、「人生五十年、六十年.」はこれまで当たり前のことだったような気がする。それがいつの間にか男性の平均寿命(生まれたばかりの男児の平均余命の意味)が80.75歳などと言われるような時代になってしまった(2015年厚労省発表、平均余命表)。それによると、満80歳になった私の平均余命は残り8.83年とある。なんと、まだ9年近くも生延びるのである。
もちろん平均余命の意味が、私個人の人生の残りを意味しているわけではない。もっと短いか、それとももっと長いのか、統計はいつの時代も無機質である。平均値の正しさと、私個人への当てはめの矛盾が常に存する。ただそうは言っても、残りを数えながらの人生であることは避けようがないだろう。
病気になって、入院して、人生観が、そして我が身のこれからに対する思いが大きく変わってきたことを感じる。それもこれも、残された時間への思いがそうさせるのだろうか。
この文章の前半部分は、事務所で1月に作ったものだと冒頭に書いた。だがこの締めくくりは、実は自宅で書いており発表もできる環境になっている。入院は単なるインターネットの引越しを越えて、20数年続いた事務所兼秘密の基地そのものの移転や閉鎖にまで及ぼうとしている。思いは複雑だがそれについては、稿を改めて書くことにしよう。
2020.1.21(追補 2020.4.15) 佐々木利夫
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