鳥肌については以前にもここに書いたことがある。それはもっぱらその用法についての疑問であった。つまり「鳥肌が立つ」と言う言葉が、感動を意味するのか、それとも嫌悪を意味するのかの違いについてであった。今ではまるで真反対の意味に使われていることへの疑問であった。

 そうした使い方の疑問についての思いは、今でも同様である。現在でも、両方の意味に使われている事実に、どこか変だと感じているからである。そして片方は間違った用法だと思っているからである。

 ところで今日ここに取り上げたのは、そうした話題ではない。「鳥肌が立つ」という事象が、私の身体に起きなくなっていることに気付いたことである。

 鳥肌が立つというのは、皮膚に起きる物理現象である。皮膚が、毛をむしられたニワトリの肌のようにつぶつぶ状態になる現象を指している。

 つまり鳥肌とは抽象的な表現ではなく、現実に自らの肌がブツブツになる状態を意味する。観念論ではなく、現象なのである。にもかかわらず、私にはこの「鳥肌」の実感がない。

 鳥肌になる代表的な場面は「寒さ」である。感動とか嫌悪という感情に対する反応ではなく、寒気にさらされる状態が鳥肌を誘発する、これが人間に当たり前に起きる鳥肌の原因だと思うのである。

 この現象は良く分かる。冬に素肌もしくは薄い下着一枚で外に出たときなど、素肌が瞬時に鳥肌状態になることは、実体験として経験することだからである。寒さに触れると、瞬時に私の腕は鳥肌になる。

 そのことに何の疑問もない。それが身体の反射なのか、それとも身体からの放熱を阻止するための反射なのか、皮膚面積を小さくするための反応として、例外なく私の肌も、なんなら隣の人の肌も、瞬時に鳥肌になる。その状態は誰にでも観察できたから、それはまさに「論より証拠」であり、現実だったのである。

 ところが今は違う。それは私たちの反応が変化したのではないと思う。鳥肌が立つような環境に、私達が置かれることがなくなったということなのである。

 子供の頃、どんな状態で鳥肌が立つような環境に我が身を置かれることになったのか、実はあんまり記憶していない。友だちと寒さ比べをするために裸で冬の外へ出たのか、それとも体を温めるに十分な衣類が不足していたからなのか、そんなことも分からない。

 両方正しいような気がしているし、もしかしたら戦後の耐乏生活の中で着るものが不足していたような、そんな気もしている。ともあれ、真冬に外気に素肌をさらしたような記憶は、どこか私に残されている。

 でも今は違う。私にとって鳥肌が立つことの原因は、「寒い」ことでありかつそれだけである。現在使われているような、感情表現としての鳥肌は、少なくとも私のご幼少のみぎりを含めても存在しなかったように思う。

 だから私は、鳥肌が立つことの基本には、この「寒い外気にさらされた皮膚の存在」しかないと思っている。その状態を基本において、その上で「そうした状態を作り出すような感情」を表す言葉として、この「鳥肌が立つ」があるのではないだろうか。

 そしてそして、私は寒い外気に肌をさらす機会もないし、更には「鳥肌が立つ」ような感情表現に陥る機会もなくなってきたのである。つまり、今の私は「鳥肌が立つ」ことなど、経験することはないのである。

 鳥肌の立つような場面とは言うのは、個人によって状況が異なるとは思う。それでも、寒気にさらされる状態で鳥肌が立つという状況は、人によってそれほど違わないように思う。だから冬山で遭難したり、難民の群れが寒気にさらされるような環境に置かれた場合は、きっと同じように鳥肌が立っているのだろう。

 そわさりながら、感動や嫌悪などの感情の変化によって、人は鳥肌が立つものなのだろうか。私に鳥肌が立たないのは、単に私の肉体感覚の受信能力が弱く(低く、鈍く)なってきただけのことで、他人(ひと)は今でも感情刺激によって皮膚状態が変化するのかもしれない。そしてそれは、嫌悪のときも、はたまた感動のときにも表れるのだろうか。


                        2020.8.21        佐々木利夫


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鳥肌が立つ