日本社会に少子高齢化が加速度的に入り込んできて、高齢者を中心に認知症が飛躍的に増加していると言う。私も80歳を超えてしまっているから、まさにその渦中である。覚えているはずのパソコンの操作も少しずつ覚束なくなり、人の名前が思い出せないのは日常になるなど、記憶に関わる様々はいつものことである。

 テレビや新聞では、妻が夫や娘の顔が分からなくなったとか、自宅が分からなくなってウロウロ徘徊するなどの話題に事欠かず、そうした人を助けるために地域の人々が協力し合おうとする活動なども、多々紹介される。

 認知症患者の増加が分からないではない。時に買い物が混乱して万引きと疑われたり、踏み切りで列車を止めたりするなど犯罪まがいの行動を誘発したり、場合によっては自らが川や側溝に落ちて何日も行方不明になり、そのまま死にいたることすらある。

 その原因のほとんどは認知機能の低下だと言われている。認知機能の低下とは、分かりやすくいえば「忘れてしまう」ことであろう。夫や息子の顔を覚えていないとか、自分の家やなじみの店の位置が分からなくなるなど、通常ならば記憶しているはずの情報が欠落してしまうことがその原因だとされている。

 どこまでが単純な忘却で、どこから認知機能の低下になるのか、必ずしも私に理解できているわけではない。だが、いわゆる「単なる物忘れ」と「認知症」とは異なるとするのが定説である。

 でも「忘れる」とは何なのかを考えたとき、「忘れる」ことの意味が分からなくなってきたのである。忘れるとは、一体誰が忘れることを言うのだろうかと、そのことが気になってきたのである。

 人は自分で思った以上に忘れていく。生まれてからこの方、忘れた事柄のいかに多いかは驚くほどである。「ほとんど」と言ってしまったら言い過ぎになるかもしれないけれど、それは生きていくことに必要のない順に忘れていくと思えるほど、「今」に関係している。

 ところで、その必要性というか重要度の判定は、誰がやるのだろうか。もちろん基本的には自分自身が行うのだろうとは思う。でも私たちは、そんなことを考えながら毎日を繰り返しているわけではない。つまり、「忘れる」は、必ずしも意図的に行われるものではないということである。

 絶対に忘れないぞと覚悟した受験勉強の成果が、試験前に跡形もなく消えてしまっている現象を私たちは幾度となく経験している。日常生活でも同様である。だとするなら、「記憶しようとする努力」や「記憶として残そうとする願望」が、記憶することの源泉になっているとは言い難い。

 一方で何の脈絡もなく湧いてくる記憶がある。子供の頃のガキ大将に追いかけられた記憶、20年も30年も前の旅先の城跡や山頂で吹いた下手くそなフルートや川べりの店先で食べたアイスクリーム、桜並木から見上げた風景などなど、それらの記憶が人生にとって役立つとはとても思えない。生きていくために必要な効用とはまるで無関係に、思い出は不意に湧いてくるときがある。

 題名の分からないメロディーが不意に浮かんでくる。今となってはまるで必要のない、二次方程式の根の方程式を思い出す。何の役に立たない円周率30桁の記憶が残っているなど、忘れてしまってもいい記憶であるにもかかわらず、私はそれを覚えており思い出す。

 そうすると「記憶している」ことと、それが人生の大切な記憶であることとは、まるで無関係に思える。何年も聞いたことのない音楽がテレビから流れてきて、その曲をハミングできるときがある。でもそのことに、果たして何の意味があるのだろうか。

 全ての記憶が、「生きていくこととは無関係だ」とは思わない。生きていくために必要な情報が、遺伝子的にせよ、後天的にせよ、私たちの中に記憶として残されていることは事実だろう。

 だが、「必要だから記憶している」と言い切れるかは疑問である。記憶は必ずしも「必要」とは無関係に保存され想起されるように思えてならない。記憶はその人の必要性とは無関係に、ランダムに保存され再生されるるのではないだろうか。

 記憶とはまさに「私の記憶」を指す。他人の記憶は、私とは無関係な他者としての記憶である。だから私の記憶と他人の記憶とは一切関わりがない。私の記憶が、私の頭脳のどこの引き出しにどのように保存されているのかは定かではない。

 それでも「私の中に保存された私の記憶」、それこそが私の記憶である。その記憶が消えてしまった、もしくは残っているのかも知れないけれど引き出せない、それが「忘れた」ということである。

 それは永久に出てこないかも知れないし、何かのきっかけでふと思い出せるかも知れない。いずれにしても、引き出せないうちは「忘れた」ことになる。

 でも「忘れた」には、二つの場面があることに気付いてほしい。基本にあるのは、もちろん「私の記憶」という一つのものであり、そして「ある場面における単一の記憶」である。

 「今日、朝ごはんを食べた」を例にとってみよう。それは「私が今朝ご飯を食べたか」という、それだけの問いかけに対する記憶である。そこには「何を食べたか」までは含まれていない。食べたことだけを覚えているかいないかだけの、たった「一つ」である。

 そしてこの記憶を求められる場面が、二つあることに気付く。一つは、私自身が食べたことを覚えているかを自問するときの答としての場であり、もう一つは他人がそれを私に質問したときの回答としての場である。

 通常この両者の回答が矛盾することはない。例えば家族から食事したかどうかを尋ねられたとしても、答えに食い違いが生じることなどないからである。

 だが「私が食事したことを忘れてしまった」とき、この方程式は成立しないことになる。私は食べていないと主張し、家族は食べたと言うだろうからである。こうしたとき、家族はきっとこう言うだろう、「あなたは食べたことを忘れた・・・」と。

 客観的に見るなら、私は食事をしている。だから私以外の者にとって「私は朝ごはんを食べたことを忘れた」ことになり、そうした意味では家族の言い分は正しい。

 でも考えても欲しい。私は「食べたこと」そのものを忘れているのである。それは私にとっては、「食べていない」ことと同義である。私にとって「忘れた」とは、「記憶しているはずなのに、その記憶が引き出せない」ことを自認できる場合に成立する概念である。つまり私は、「忘れた」ことすら「忘れている」のだから、「忘れた」との自認を求めること自体が矛盾になるのである。

 繰り返す。この場合、「忘れていない」のが私にとっての正しい記憶なのである。ここに「忘れた」の二面性が生じる。食べたことを覚えていないのだから、食べていないと言うしかない。仮にビデオで食事場面が撮影されていたとしても、食べた記憶がないのだから「食べていない」のが、私の記憶における真実なのである。

 それはつまり「忘れた」とは、「覚えているはず」と言う思いが自分の中にあること、それが前提なのである。、その「はず」の答えが出てこないとき、始めて「私は忘れた」が成立するのである。ある曲が鼻歌で歌えたとしても、それだけでその歌の題名や作曲者を覚えていることにはならないのだから、それだけで「忘れた」と言うことはできないだろう。

 「記憶しているはずだ」が私の中にあり、その答えが出てこないとき、私は「忘れた」ことを自覚することができる。そして「忘れた」と自分自身に言い聞かせることができるのである。だから、「忘れた」ことと「覚えていない」こととの区別は、少なくとも本人自身の中ではできないのである。

 「忘れた」とは、「忘れた事実を自分の中で認識てぎる状態」を言うだけにしか過ぎない。だから、本人以外の者が「あなたは私の顔を忘れている」とか、「あなたは自分の家がどこなのか覚えていない」などと言ったところで、それは少なくとも他者の判断であって、「私の判断」ではない。つまり、「(私が)忘れた」ことにはならないのである。


                        2020.8.18        佐々木利夫


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忘れることの意味