時に言葉の意味は、自動的に変化、それも低きに流れていくのだろうか。意図するかしないかとは別に、一つの方向へ向かって変化してしまうのだろうか。タイトルに掲げたのは、最近になって差別語として特別視される方向へと変化したように思える言葉の一つである。

 私たちは、特に意識することなく「黒人」という用語を使っていた。アフリカの赤道直下の人種の肌は黒く、ロシア人は白い(私には赤く見えるけれど)のは、ただそれだけの意味だった。だがそれがいつの間にか黒人は未開人、白人は教養人みたいな発想が染み付いてしまった。

 また私たちは、アイヌ人のことを、たとえ相手を保護する目的だとは言え、100年近くもの間「旧土人」と呼んでいたことがある(北海道旧土人保護法、1899(明治32)年制定、1997(平成9)年廃止)。

 これらの言葉に限らない。差別用語として槍玉に挙げられているような言葉は、私の知っているだけでも、「めくら」、「つんぼ」、「いざり」、「おし」、「びっこ」、などなど・・・まだまだある。このほかにも、住民を出身地域名で呼んだり、性差や性へのこだわりを区別し蔑視するなどの例も多発している。

 そして最近話題になっているのが、この「ホワイトニング」である。それが正確な訳なのかどうかは必ずしも分からないけれど、アメリカで黒人が白人警官に首を絞められて死亡した事件を契機に、いわゆる白黒の言葉自体に対する拒否反応が起こり、それに呼応してこのホワイトニングがマスコミに登場してきた。

 原点は黒人白人の差別だったと思うのだが、それがいつの間にか白黒の差別に対する嫌悪へと拡大していった。そして最近は「美白」のような、「白」であること固有の領域にまで、その差別意識が拡大されるようになってきた。これがホワイトニングである。

 具体的には、「美白」であるとか「色白」という表現を避けようとする動きである。恐らくこうした考え方の背景には、「白=高級、善」、「黒=下等、悪」のような考えが流れているのだろう。

 多分こうした流れは、この美白だけに限るものではなく、白人の白、黒人の黒という意味にも含まれているのだろう。最近の雇用情勢を示す言葉の中に、「ブラック企業」というのがある。労基法や労働者の人権を無視した雇用形態をとる企業を指す語である。

 ここで言う「ブラック」には、もはや「黒色」のイメージはない。ブラックの意味は白人黒人のイメージを超えて、真っ直ぐ「悪」に向かっている。

 確かに私達も、例えば「白黒をつける」など、こうした色の違いを善悪や犯罪を犯した者の代替表現として事実上使ってきた。そしてその場合の「黒」は、まさに悪であり有罪であった。

 だが常に黒が否定的なイメージを表すものでないことも、私たちは知っている。「白」がマイナスイメージを持つような使い方は、葬式につながる僅かの例を除いて残念ながら私の知識にはない。

 だが黒には例えば「からすの濡れ羽色」、「漆黒」、「黒髪」、「黒点」、「黒板」、「黒子(ほくろ)」などのように、純粋に色として評価している用法が多い。時には黒を礼賛するような使い方すらある。

 だから問題となるのは、そうした使い方、つまり差別とか区別としての表現ではなく、その単語の中に「蔑視の意図」が含まれているかどうかだと思うのである。

 例えば「バカ」という言葉がある。その語が、相手の考え方が社会や自分と異なる事柄や、そうした思いを抱いている人物を指しているだけのことであるなら、それはそれで間違った使い方ではないと思う。ただそれを、相手の知能が低いとするような蔑視の代理表現として使ってしまうことが誤りになるのではないかと思う。

 だから「バカ」という語そのものが差別用語なのではなく、「バカ」を相手対する蔑視として使う、その使い方が差別になると思うのである。蔑視を含むかどうか、そこに差別とされる用語の使い方と難しさがあるように思う。

 そんな状況下で、「蔑視を含んで使用される例があるので、この言葉は今後一切使わないようする」と、一律に決めてしまうことは、どこまで妥当するだろうか。言葉には魂があるとまで真剣に考えているわけではないけれど、言葉には私たちが大切に育んできた長い歴史と思いが込められている。そうした重みを、私たちは大切にして行きたいと私は思う。

 このホワイトニングもそうである。色白を美人に結びつける風潮に、必ずしも賛成するわけではない。色白になりたいと思う背景には、単に美しい以外の複雑な要素が含まれているのかもしれない。そしてその要素には、例えば蔑視の反語としての優越であるとか善だとか正義みたいな思いが、暗黙裡に秘められているのかもしれない。

 もしそうなら、私たちは無意識に差別を前提とした言葉の使い方をしてしまっていることになる。でも、本当にそうだと言えるのだろうか。言葉は自らの意思を伝えるためにある。そんなとき、言葉の意味をきちんと知らないまま使ってしまうのは、使う側の自己責任なのだろうか。

 知らないことが罪である場合もあるとは思う。万引きが犯罪だとは知らなかったといういい訳が、どこまで正当な理屈として通じるかは疑問である。でも使う言葉の正確な意味を十分理解しておらずネガティブに誤解されるような使い方をしてしまったとき、その「理解していなかった」ことが果たしてどこまで責められるべきなのだろうか。

 また、反対にその言葉に含まれる賞賛や善意が理解されなかった場合、理解されるまで努力を尽くさなかったことが、発言者として責められるべきなのだろうか。それとも、そんな内容を理解できなかった受信者が責められるべきなのだろうか。

 もしこれを、互いの責任として理解できるなら、その責任は相殺されるのだろうか。それとも言葉に対する責任というのはそれぞれが独立しており、相殺そのものが許されない世界なのだろうか。

 言葉を大切にするという思いとは裏腹に、現代はこうした差別語への登録なども含めて、言葉そのものが軽くなっているような気がしてならない。新語が出ては消え、造語もまた同様の道をたどる。言葉は使わないと小さくなる。そしてやがて消えていく。

 それでいいとする意見もあるだろう。でも大切に育てることで豊かな実りを迎えることもできるのではないだろうか。

 そうした様々を、言葉は変化するという一言で片付けてしまっていいのだろうかと、へそ曲がりの老爺は混乱した頭を抱えている。


                        2020.8.28        佐々木利夫


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