コロナウィルスの感染拡大がニュースになってから、ほぼ10ヶ月になる。にもかかわらず終息の気配はまるで見えず、世界でも日本でも拡大する一方である。そして経済も含めて世界中が大混乱の坩堝にある。

 なんたって世界の感染者数の累計が5,400万人を超え、死者もまた130万人にも及んでいるからである。だからこれは、世界の緊急課題だと考えてもいいだろう。国によっては一日の感染者数が18,000人を超えるまでになり、WHO(世界保健機関)は今年三月にパンデミックを宣言している。それから8ヶ月も経とうとしているのに、治療薬も予防ワクチンの開発も未だままならない状況にある。

 そんな中でこんな記事が新聞に載った。1ページに近い大きな記事であった。見出しに大きな活字で、こんな文字が並んでいた。「院内感染防げ 疑い段階で即応」(2020.10.21 朝日新聞)。

 この報道そのものに疑問があるというのではない。コロナ感染のクラスター(集団感染)化が多発しており、最初は老人ホームであるとか、カラオケ店、飲食店などの人の集まる場所があげられていた。そうした傾向はは今でも変わらない。だが当たり前と言われれば当たり前なのだが、そうしたクラスターの中に病院が含まれるようになってきたのである。

 それはそうだろうと思う。コロナの症状は様々らしいけれど、時に症状の出ないいわゆる無症状感染が比較的多いとも言われている。ただ少なくとも私たちは、「病気になったら病院へ行く」のが常識だし、感染がまだ疑い段階だったとしても、頼りになるのは病院だろうからである。

 そして病院を訪れた患者相互、または患者と接した看護師や医者などを通じて感染が拡大していく。その警告がこの新聞記事の言う「院内感染防げ」である。病院が感染源になってしまうこと自体が、病院としての自己矛盾になるからであろう。だからと言っても、事実は思いとは裏腹に表れる。この記事は裏腹を自己矛盾と感じつつ、そうした自己矛盾が避けられないことを示している。

 ただこの記事を読んだとき私は、「そうなんだ、それが当たり前なんだ」と奇妙に納得している自分を感じたのである。こうした考えは、別にコロナ特有の発想ではない。私達が生きていく上で、当たり前に身につけた生きていく上での知恵なのではないかと思ったのである。

 それは「君子危うきに近寄らず」と少しも違わないと思えたからである。人は、疑いだけでそれを避けるための行動をとらなければならない場合があることを、この記事ははからずも知らせてくれているのである。

 記事の内容は、「疑い患者」に対する病院の対応についてのものである。感染が疑われる患者に対して、どこまで万全な対処を取ることができるかに対する悩みである。でもそれはそのまま疑い患者から離れて、感染が拡大している東京からの来訪者、患者の多い札幌地区からの移動などにまで拡大していく。

 記事からも分かるとおり、その対象は単なる「疑い」でしかない。コロナに即して言うなら、即応しなければならないのは、「感染した患者」や「発症している病人」ではない。「単なる疑い」からの逃避なのである。

 まだ「疑い段階」であるにもかかわらず、それを我々は事実とみなし、そこから避難しなければならないと、記事は警告しているのである。不確実な事実であるにもかかわらず「疑問だけ」、「疑いだけ」でその他者を「区別」し、そこから「避難せよ、対処せよ」と警告しているのである。

 もちろんコロナは、考え方によっては絶対悪であるかもしれない。絶対悪がターゲットであるなら、どんな差別や区別も許されるとする考えは、果たしてどこまで許されるのだろうか。

 例えば「殺すなかれ」が人類永遠の、決して揺るがない真実だとした場合の、「絶対悪殺人」のように。でもその殺人だって、モーゼの放った戒は人類普遍への答ではなく、単に同一民族内の殺戮を禁じたものだとする説もある。

 また死刑は日本も含め、多くの国で妥当な刑罰だと承認されている。また交通事故のみならず、多くの災害で人の死が、対策が放置され見過ごされている事実をどう考えればいいのだろうか。更には戦争による殺傷は、むしろ国家によって推奨されていることはあまりにも明らかである。

 とするなら、コロナを絶対悪と定義すること自体が疑問になる。そもそも「絶対善」だとか「絶対悪」などの判断は、誰がどのようにしてするのだろうか。もし仮に、人類にそうした判断が委ねられているのだとしたら、その判断は「絶対」というレッテルを貼ってもいいのだろうかろ。それは多数決なのだろうか。

 つまり「絶対」とは、人類固有の価値判断なのかということである。つまり人類さえ良ければ、人類以外が抱く価値観は、無視してかまわないのだろうか。それとも、人類に対する災厄に限り、予防のための差別はいいとでも言うのだろうか。

 私はコロナの絶対悪とする価値観を真っ向から否定しているのではない。ただ、この記事からも読取れるように、人は「疑いだけで逃避する」ことを、当然としている事実が当たり前に存在していることを言いたいのである。

 しかも私たちは差別の原点に、多くの場合「予防」をおいている。それがどこまで許されるのだろうか。「私が迷惑と感じるだろうことを予防するため」、「私が不愉快になるだろうことを予防するため」、「万が一の事故が起きたら困るから」、「二度とあの人には会いたくないから」・・・、「もしかしたら」で始まる様々は、常に予防が先行する。

 でも考えても欲しい。目の前に迫った危険ではないとしても、万が一の危うきをさける行動は、私達が空腹や貧困や迫害、更に多くの災厄から生延びてきたことの原点にあったのではないだろうか。だからこそ我々は生延びてこられたのではないだろうか。生延びるための必須の条件だったのではないだろうか。

 だから私は、この記事を否定するのではなく、むしろ人類の原点に存する考えだといいたいのである。そしてその上に立って、「差別はやめろ」とか「区別することは人権侵害だ」などと安易に言い募るだけの人たちの発言に、一歩下がった考えをしてもらいたいと思うのである。



                        2020.11.18      佐々木利夫



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予防と差別